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霊験あらたか?延命地蔵! ニュース記事に関連したブログ

2011/06/04 09:40

 

『おばあちゃんの銀座』とまで呼ばれ、連日大賑わいの巣鴨高岩寺(通称 とげぬき地蔵)のご本尊は『延命地蔵』です。

 

 

「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺、正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といいます。慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきました。
ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。こちらの地蔵菩薩様は秘仏ですので残念ながら拝見させていただくことはできませんが、そのお姿を元に作られた御影(おみかげ)に祈願してもご利益があるとされています。こちらは高岩寺のご本堂で授与されています。

 

延命地蔵菩薩とはどんな仏さまでしょうか?

 

 

 

 

こんなに霊験あらたかな菩薩様ですが

 

永田町にはこんな延命地蔵もあります。

 

それがこの地蔵菩薩?です!

 

 

永田山 小鳩菅寺民主堂 ご本尊

 

延命地蔵菩薩(通称 唯我独尊)

 

ただし巣鴨のとげぬき地蔵と違って、このご本尊を拝んでも、ご利益(ごりやく)はまったくありません。

ご本尊にのみご利益(ごりえき)があります。

あしからず。

 

また、巣鴨の高岩寺(とげぬき地蔵には)には、こんな観音様もありますのであのお方もオツムを洗われたほうがよいのではないかと!(笑)

 

 

 

洗い観音

江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1657年 ※1)で、当寺の檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。 この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれました。これが「洗い観音」の起源です。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成41127日、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行した。新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義江氏です。同時にタワシを廃止し布で洗うことにしました。

巣鴨地蔵通り商店街ホームページより

http://www.sugamo.or.jp/prayer_detail01.html

 

延命地蔵【エンメイジゾウ】

 

·         1件の用語解説(延命地蔵で検索)

·         デジタル大辞泉の解説

·         えんめい‐じぞう〔‐ヂザウ〕 【延命地蔵】
 
延命利生(りしょう)誓願する地蔵尊。新しく生まれた子を守り、その寿命を延ばすという。後世は、短命若死にを免れるため信仰された。

·          

·         出典:小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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日系人部隊とTBS『99年の愛』・映画『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(4)

2010/11/06 19:08

 

 

映画『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』

 

ヴォージュ山中で孤立した『テキサス大隊(失われた大隊)』を、自ら最大の犠牲者(救った大隊の兵の4倍の犠牲者)を出しながらも、英雄的行為で救出して勇名をはせ賞讃された『第442連隊戦闘団』(ペンス大佐指揮)は、ようやく11月下旬に南仏で休息を取ることができました。

しかし、この有能な戦闘団はもはやアメリカ上層部にとっては、強大な打撃力のある秘密兵器のような貴重な存在となっていました。

1945年3月になると、極秘に『第442連隊戦闘団』に行動命令が下ります。日系人部隊の戦績を評価していた、イタリア戦線のアメリカ第5軍マーク・クラーク中将の要請によるものでした。《すぐ昇進して、第15軍集団(米第5軍、英第8軍で構成)、司令官マーク・クラーク大将となる》

 

 

第442連隊戦闘団作戦行動(『歴史通』2010年11月号より)

 

この時イタリア上陸から『第442連隊』で共に行動して来た『第522野戦砲兵大隊』(日系人部隊:ハリソン少佐指揮はそのままアメリカ第7軍ジョージ・パットン司令官)に指揮下に入り、ドイツに進駐しました。

一方、1945年3月23日に『第442連隊』(第100大隊、第2大隊、第3大隊、第232工兵中隊)南仏マルセイユを出港しました。今度は行き先も作戦内容も伏せられたままでした。

そして、『第442連隊』イタリアレグホーン(リヴォルノ)に再上陸しました。

前年の9月に『第442連隊』が離れた後のイタリア戦線は、ピサからフィレンツェにかけての山岳地帯に、ドイツによって築かれた『ゴシック・ライン』と呼ばれた強固な防衛線(要塞群)に阻まれ、全線にわたって膠着状態となっていました。*峻厳な山々が連なる様が、ゴシック建築の教会の尖塔をおもわされるから、その名をつけられた。

 

 

 

現在のゴシック・ライン(ヴェルシリア地方)

 

 

 

ゴシック・ライン攻略

 

『第442連隊』は、『ゴシック・ライン』の西部のヴェルシリア地方へ投入されました。ここの攻撃を担当していたのは、『第442連隊』と同じように、白人からその能力を疑問視され、いわば隔離状態で独自の師団を構成していた、黒人(アフリカ系住民)兵のみの第92師団(通称『バッファロー部隊』3個連隊:12、000人、下士官は黒人、上級士官は白人でした。アメリカ軍全体の黒人兵は900,000人、

しかし、日系人部隊とは違い、『ゴシック・ライン』第92師団(通称『バッファロー部隊』)は、その通称の名に値しないほど戦果を挙げることができず、ドイツ相手に苦戦し、攻撃開始から5か月を過ぎても『ゴシック・ライン』をほとんど攻略できずにいました。

*「下級将校と兵士の伝達の不手際?」や「黒人兵士の士気の低さ?」とかいろいろと原因があったようです。

 

 

 

黒人で編成された第92師団『バッファロー部隊』

 

『ゴシック・ライン』ドイツの要塞群は、イタリア半島を南北にはしる標高900mから1,087mという高い山々にあり、見通しが良く、防衛上にきわめて優れており、この要塞はアメリカの侵攻を頑強に阻んでいました。

『ゴシック・ライン』は南から『フロリダ高地』『ジョージア高地』『第1オハイオ高地』『第2オハイオ高地』『第3オハイオ高地』『フォルゴリト山』『カルキオ山』と6つの峰から成りたっており、

新任のヴァージル・ミラー中佐(第442連隊長)は、攻略の主目標を『ジョージア高地』『フォルゴリト山』におき、東側から『第3大隊』『フォルゴリト山』の背後を、『第2大隊』『カルキオ山』を攻撃し、南から『第100大隊』『ジョージア高地』攻撃する作戦となりました。

 歴戦の『第442連隊』の得意とする戦闘方法は、戦争の定石である「敵の弱点の攻撃」ではなく、「敵の最も強力な陣地への奇襲作戦」でした。

 攻撃開始は1945年4月五日の払暁(午前5時)。『第2大隊』『第3大隊』の攻撃目標は『フォルゴリト山』『カルキオ山』の間の鞍部でした。

前日の4月4日の夜10時に、イタリアのパルチザンの案内で第3大隊アッザノ村を出撃、午前6時ごろ攻撃を開始、山頂のドイツ陣地からの砲撃・迫撃砲、海岸陣地からの砲撃に行く手を阻まれながらも、ドイツ陣地を攻略しドイツは退却。

一方南側の第100大隊は、4月4日の夜、ジャン・コンリー少佐の指揮でヴァレキア村から出撃し『フロリダ高地』に進出、5日の午前5時に砲兵の支援の元、ここから北方の『ジョージア高地』を攻撃し、すぐに『ジョージア高地』を陥落させました。

 

しかしこの戦闘で、地雷の爆発と機関銃の掃射を受け苦戦中の『第100大隊』は、分隊長が倒され、変わって先鋒分隊を率いたサダオ・ムネモリ上等兵が単身で敵の機関銃座2カ所を破壊、3人を射殺2人を重傷を負わせた所へ、大量の手榴弾の攻撃を受けましたが、ムネモリ上等兵が、落ちて来た手榴弾の上に自分の体で覆いかぶさり、自らを犠牲にして仲間2人の危機を救いました。

 

この戦闘で『第442連隊』(2,500人)は、黒人兵の第92師団(通称『バッファロー部隊』20,000人)5カ月かけても落せなかった『ジョージア高地』を、たった32分で攻略するという殊勲(離れ業)をやってのけました。もはや日系部隊に落せない堡塁・陣地はまったくないに等しいくらいです。

一方『第2大隊』は、『第3大隊』に続き『フォルゴリト山』から『カルキオ山』を攻撃し陥落させ、北方の『ベルヴェルデル山』に進出し攻略しました。

多くの犠牲を出しながらも北進した『第442連隊』は、つづいて4月21日に『ネビオネ山』を攻撃します。

『第2大隊』が中央から、『第3大隊』が左翼から、『第100大隊』は右翼からそれぞれ攻撃を開始。

この戦闘に参加した日系人にダニエル・イノウエ上院議員ハワイ州選出)がいました。彼は第2大隊E中隊の小隊長(中尉)として参加。(『失われた大隊』救出には、所用で連隊本部にいて不参加)

かれはこの戦闘で、3方向からの機関銃の掃射を受け小隊が苦戦している中で、単身、敵の迫撃砲陣地を攻撃中に下腹部を撃たれながらも自動小銃を撃ちつづけ、手榴弾2発を投げ込んで迫撃砲陣地を破壊。そして、となりの砲座を攻撃中に右腕を撃たれて右腕を失い右腕でつかんでいた手榴弾を、左手で投げてドイツ兵を殲滅。そのまま自動小銃を左手で撃ちながら戦闘を続け、最後に残ったドイツ兵に右脚を撃たれ倒れたそうですが、なんとか生き延びたようです。なんと凄まじいヤマト魂』を発揮したものだと感動します。

 

 

ダニエル・イノウエ中尉(当時)

 

 

 

ダニエル・イノウエ上院議員(現在)

 

 

この後も『第442連隊』ドイツ軍の激しい抵抗を打ち砕き奮戦し続け、山岳地帯を北上、カララピエトラサンタなどのヴェルシリア地方の町をドイツから解放し、1945年5月2日、イタリア戦線の戦闘を終了しました。

 

 

日系2世部隊『第442連隊』によってドイツ軍から解放されたピエトラサンタの町では2000年4月にドイツ軍占領から解放してくれた日系二世部隊を記念して記念碑を造り日系二世の生き残り(50名)、遺族(70名)の人びとを呼んで、記念式典を開きました。

 

 

ピエトラサンタ(プリエラ)での解放65周年記念式典

(『歴史通』2010年11月号より)

 

 

サダオ・ムネモリ上等兵のブロンズ像(イタリア・ピエトラサンタ)

 

 

 

ムネモリ像の前の姉 「横山八重子」さん

 

 

 サダオ・ムネモリ上等兵に授与された『議会名誉勲章』を受け取る、母「旨森名和子」さん

 

 

 一方、『第442連隊』から切り離された『第522野戦砲兵大隊』の戦闘は、まだヨーロッパで続いていました。

彼らは、アメリカ第7軍パットン将軍の指揮下でドイツ進駐に加わり、ライン川ハイデルベルヒシュツットガルトを経由して、4月26日にドナウ川を渡り、ドイツの中心地のミュンヘン近郊まで到達しました。

そして、4月27日にミュンヘン西方のアウグスブルク捕虜収容所を解放。

4月29日にミュンヘン北方のダッハウドイツ親衛隊を破り、32,000人のユダヤ人を解放しました。このとき『第522野戦砲兵大隊』アメリカの先鋒部隊と共に行動していたようで、ダッハウ収容所に一番乗りをしたそうです。

そして、この直前にドイツ秘密警察の監視の元、ダッハウ収容所から8,000人の囚人が移動され『死の行進』をしていました。2日目に入ると人里離れた丘陵地で突然行進を止められて、そこにダッハウから南方へ移動中の『第522野戦砲兵大隊』の日系兵に発見され、彼らを救出したそうです。まさに殺される寸前でした。

 

 

ダッハウ収容所

 

 

収容所の囚人たち

 

 

ダッハウ収容所(人間焼却炉)

 

 

ダッハウ収容所(現在)

  

日系二世にとっては、ユダヤ人の境遇は他人ごとではありませんでした。彼らの家族も故国(アメリカ)で同じ様な強制収容という待遇を受けていたからです。

 

こうしてドイツ軍の崩壊、ヒットラーの自殺、ベルリン陥落、ドイツ降伏とあっという間に時間が通り過ぎ、日系二世部隊は、死傷率314%というアメリカ軍最大の損害を出しながらも、残った将兵は無事帰国しました。

 

帰国した日系人部隊はトルーマン大統領に迎えられ、彼らの栄誉を称えて式典が執り行われました。

この式典でトルーマン大統領は、こう述べています。

 

『諸君はこんどの戦争で二つの敵と戦った。

一つは戦場における敵であり、もう一つは米国内の偏見との戦いである。

諸君はいずれの戦いにも勝利をおさめた。』

 

『第442連隊戦闘団』の叙勲は

大統領感状    7

議会名誉勲章    1

*2000年に、クリントン大統領からイノウエ中尉以下20名があらたに授与された

陸軍殊勲賞     3

殊勲十字章    42

銀星章      350

銅星章      832

名誉戦傷章 9、486

 

 

第442連隊部隊マーク

 

 

 

しかし、死傷者数 9,486人と、アメリカ軍の中でも群を抜いて損害を出しています。

 

かれら日系軍人が戦場で殊勲を挙げても、まだ日系人(米本土)に対する差別は終わっていませんでした。

『排日土地法』1920年制定

『排日移民法』1924年制定

が残されていました。

彼らは7年という歳月をかけ、1952年に排日二法を撤廃することに成功しました。

しかし、没収された土地や財産は、すべて戻ることはありませんでした。かろうじて1988年にレーガン大統領が移民一人当たり20,000ドルの補償を約束したのみです。

 

日系二世はの生き残りの人びとは、2000年~2002年にかけて、自分たちの戦った戦場を再び訪れました。

第2次世界大戦が終了して半世紀以上たっていました。

その戦場に再び訪れるためには、悪夢の記憶を消すために、そのくらいの年月の経過が必要だったのです。かれらは彼らの次代や他の民族への差別などを語り継ぐために、もう一度記憶を取り戻す必要を感じたようです。

彼ら第2次世界大戦の『欧州戦線』で戦った日系人兵士たちは、自らの命をかけ有色人種の名誉を獲得したのでした。

 

彼らの合言葉は,『ゴー・フォー・ブローク』(Go For Broke

『当たって砕けろ!』または『撃ちてし止まん!』である。

 

日本人の血脈に滔々と流れていた『ヤマト魂』、『サムライ精神』の発露でした。

まさに彼らは見事にそれを成し遂げたのでした。

 

◆第2次大戦の日系2世部隊に最高位の米議会勲章

2010.10.07 Thu posted at: 13:50 JST

http://www.cnn.co.jp/usa/30000453.html

 

 

ロサンゼルスの『ゴー・フォー・ブローク記念碑』

 

 

『ゴー・フォー・ブローク記念碑』の前のヤング・オーク・キム元陸軍大佐

彼は大戦中に、日系二世部隊とともに死闘をくり返した。

 

 

 

ロサンゼルスのエバーグリーン墓地には日系人の殉国碑があります。

ここには『議会名誉勲章』を受けたサダオ・ムネモリ上等兵の墓碑もあります。

 

 

 

サダオ・ムネモリ上等兵の墓碑

 

  

日系人部隊のよき理解者であったマーク・クラーク大将はこの『殉国碑』にこう記しています。

 

イタリア戦線で私の指揮下にいた日系二世部隊が、いかに国家に忠誠で勇敢に戦ったかを、ここにねむる兵士は象徴している。

私は心から、かれらに敬意を表する。やすらかにおねむりください。』

 

 

ロサンゼルスの『殉国碑』 マーク・クラーク大将の言葉が刻まれている

 

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日系人部隊とTBS『99年の愛』・映画『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(3)

2010/11/04 17:55

 

 

  

 

★『ゴー・フォー・ブローク!-日系二世兵士たちの戦場』 渡辺正清著 光人社刊

★歴史通 2010年11月号(ワック出版)

『死闘!442―日系人部隊は米軍服を着た「皇軍」だった』

 

          

 

★『進め!日系二世部隊 442連隊戦闘団』 矢野徹 著 角川文庫

★歴史群像 2001年2月号  『日系二世部隊の死闘 第442連隊戦闘団』

 

『アルバノ高地』などを攻略した『第100大隊』ローマ郊外を通過し、ローマ北方に位置するシビタベッキアで休息を取りました。

1944年6月11日になると、キャンプ・シェルビー基地で訓練を受けた『第442連隊』(がシビタベッキアに到着します。

こうして日系人部隊は三個大隊:第100大隊(A,B,C,D中隊)、第2大隊(E、F、G、H中隊)、第3大隊(I、K、L、M中隊)と第522野戦砲兵大隊第232工兵中隊、部隊本部付(本部中隊、対戦車中隊、砲中隊、医療班、整備班)の構成された『第442連隊戦闘団』という独立した組織となり、第34師団ライダー師団長指揮)に組み入れられました。

 

 

シビタベッキアからピサ

 

そして6月26日に、第34師団地中海沿岸の国道沿いに北進し、ベルヴェデル付近の高地で待ち構えていたドイツ軍と戦闘に入りました。この戦闘で『第100大隊』が寡兵でもって、ドイツ軍の高地陣地を攻略することに成功します。

『第100大隊』は戦死4人、重傷7人に対して、ドイツは戦死178人、重傷20人、捕虜73人、捕獲・破壊した車両46台、戦車5台という大殊勲をあげ、部隊としての最高の勲章である『大統領部隊感状』を授与されました。

 

 

 

イタリア山中を行軍する日系二世部隊

 

その後も『第442連隊』サセッタセシナを激戦で攻略し、7月4日にはアメリカ陸軍ヘンリー・スチムソン陸軍長官の閲兵式が執り行われました。

すると、スチムソン長官クラーク中将ライダー師団長の乗ったジープが『第100大隊』B中隊サカエ・タカハシ大尉の前に止まりました。

するとジープから降りて来たライダー師団長は、タカハシ大尉の肩に手をかけて、

第100大隊は、わが師団最強の部隊です。』スチムソン長官に言いました。

スチムソン長官

『記録によれば、第100大隊は顕著な戦績を残している。誇りに思ってほしい。』

とねぎらったそうです。

 

日系人部隊のこれまでの死闘や努力が報われた瞬間でした。日系人部隊は激戦に次ぐ激戦を克服して、ライダー師団長(第34師団)クラーク中将(第5軍司令官)などに信頼の元に彼らの期待に見事にこたえ、最大の評価を受けたのです。

 

そして、140高地レグホーン(リヴォルノ)と激戦の上にレグホーンを攻略し、戦闘を終了しました。

ここでは、7月27日にマーク・クラーク中将、翌日にはイギリス国王ジョージ六世の閲兵も行なわれたようです。

 

 

 

レグホーン(リヴォルノ)に進駐した第100大隊

 

 

レグホーンで日系人部隊を閲兵するクラーク中将

 

レグホーンの戦闘を終えた『第442連隊』は、休息を取ると8月1日からローマ郊外で訓練を行ないました。

そして8月10日になると、『第442連隊』に新しい任務が告げられました。

『第442連隊』は第34師団を離れ、『第100大隊』第4軍に、その他は第2軍88師団へ転籍し(対戦車中隊は、7月14日に連合軍司令部第7軍(南仏に侵攻)に転籍済み)『第100大隊』ピサへ進撃し、残りの『第2大隊』、『第3大隊』他はフィレンツェへ進撃しました。

 

そしてピサの戦闘終了後に、『第100大隊』『第442連隊』に戻りフランス侵攻第7軍に転属し、ピオンピーノの港から輸送船に乗り込みナポリへ上陸、9月18日には本国からの増援部隊(672名)と合流し、輸送船でフランスマルセイユへ向かいます。

 

 

442連隊戦闘団作戦行動地図

 

9月29日にマルセイユに上陸した『第442連隊』は、第7軍の麾下に入り新しい軍事作戦のための訓練を行ないました。

 

このころには『ノルマンディー上陸作戦』)(6月5日~)も無事行なわれ、8月25日には連合軍によりパリも解放され、9月4日にはベルギーのアントワープも陥落しました。しかし連合軍は、オランダからドイツ本国へ侵攻する『マーケット・ガーデン作戦』(映画『遠すぎた橋』の作戦)に失敗し、西部戦線は膠着状態にありました。

 

そして10月9日に『第442連隊戦闘団』は貨物列車とトラックに分乗してローヌ平原を抜け、フランス東北部ヴォージュ山中エピナルへ向かいます。

 

 

トラックに乗り込みヴォージュ山中へ向かう日系二世部隊

 

そして10月12日にエピナルに到着しましたが、第7軍によってすでにエピナルは制圧されており、部隊は10月14日にヴォージュ山中を要塞化していたブルイエルドイツとの戦闘に入りました。『第442連隊』『第2大隊』『第3大隊』などにとっては、本格的な戦闘の初陣になりました。そして、『第442連隊』の所属はJ・ダールキスト少将の指揮する第36師団に配属されました。これがのちのち、『第442連隊』に災いします。

 

 

 

アルザス・ロレーヌ戦線

 

ヴォージュ山中を行軍中の第442連隊

 

このあたりはアルフォンス・ドーテの短編小説『最後の授業』で有名なアルザス・ロレーヌ地方(ドイツ名はエルザス・ロートリンゲンで、東側は有名なシュバルツバルト(黒森)の大森林地帯で、北側にはルクセンブルグ普仏戦争第一次世界大戦で有名なヴェルダンメッツがあり、フランスとドイツでは昔から国境紛争の地で、このヴォージュ山脈を越えればすぐにライン川に達し、ドイツ本国は目の前でドイツの抵抗は凄まじいものでした。

ドイツ軍(第19軍)は、ブルイエルを見おろす4箇所の高地(標高4~500m)にA(北)、B(北西)、C(東)、D(北東)《米軍の呼称》の堡塁を築き、米軍を待ち構えていました。

 

 

ブルイエルと『失われた大隊』の解放

 

攻撃は『第100大隊』A高地を、『第2大隊』B高地を担当し、『第3大隊』は予備として後方に控えていました。

戦闘が始まると、『第442連隊』は大混乱となりました。

ヴォージュ山中には、森のあちこちに設けられた擬装した機関銃座、塹壕があり、トラップ(わな)や地雷も仕掛けられており、森林地帯の為敵の位置が判らず、銃を撃っても樹が邪魔をするし、敵からの砲撃による砲弾が木々に命中した際に起こる、無数の砲弾の破片と木々の破片による『ツリー・バースト』という現象で兵士たちは次々と切り裂いていきました。

 

 

ヴォージュ山中の機関銃座

 

 

ヴォージュ山中の戦闘

 

 

ヴォージュ山中の日系兵士

 

 

『第442連隊』は10月15日から攻撃を開始しましたが、敵の攻撃がひどく初日は500mしか進攻できませんでした。また冷たい雨が降り、塹壕の中は氷水の池のようになり、兵士たちは次々と『塹壕足炎』となり歩行不可能な兵士も続出しました。それでも、兵士たちは塹壕に踏みとどまり攻撃しました。

『第442連隊』は戦車の派遣を師団本部に要請し、工兵の協力で戦車を高地まで山中を引き上げ攻撃を再開し、ようやく10月18日夕方、A高地B高地の攻略を完了し、ブルイエルドイツから解放しました。

しかし、まだ奥のC高地D高地の陣地が残っていました。それでも連隊全軍で20日にはD・C高地陥落させましたが、師団長ダールキスト少将のわけのわからぬ命令で、せっかく陥落させたC高地を撤退することとなり、またC高地ドイツに奪回され、あらためて第3大隊の攻撃で奪回することに成功しました。(この戦いで『第422連隊』は再び、『大統領部隊感状』を授与されています。)

そして戦闘を終え休息していた『第442連隊』、ダールキスト少将の命令が下りました。ビフォンテーヌへの進撃でした。

『第442連隊』は休む間もなく、10月25日にビフォンテーヌの東方3kmのヴォージュ山中ドイツに包囲された、アメリカ軍第36師団、第141連隊、第1大隊(テキサス大隊)の救出に向かいました。この時にはビフォンテーヌの近くに他の2個連隊が居たようですが攻撃に失敗したようで、なぜかまた、『第442連隊』に救出の命令が下されたのでした。

『第442連隊』の兵士は勇敢でした。敵軍の攻撃で友軍が前進を阻まれたりすると、誰かが自分の身を犠牲にして友軍の進撃を助けることが多かったそうです。

この『「失われた大隊」救出作戦』では、まず第3大隊K中隊ドイツ戦車の攻撃で前進を阻まれます。そこをミツイチ・ヨギ上等兵がバズーカ砲を撃ちながら敵戦車に25ヤードまで接近し、ロケット弾を発射し戦車を破壊、敵兵を射殺し、自分も敵の銃弾を受けて即死しました。そして敵軍を追い払い撤退させることに成功しました。

 

 

442部隊の「失われた大隊」救出を記念して製作された絵画

 

また、敵軍の機関銃、ライフル銃、手榴弾の攻撃を受けたK中隊ゴードン・ヤマシロ軍曹が、単身で敵の陣地を攻撃し、ドイツ軍狙撃兵1人と機関銃手4人を射殺し、自分も狙撃され即死したそうです。

一方、敵中で孤立した第1大隊「テキサス大隊」は、『失われた大隊』と呼ばれアメリカ本国でも大きく報道され問題となっていました。功を焦ったダールキスト少将『第442連隊』に『どんな犠牲を払ってでも、テキサス大隊を救出せよ!』としつこく督戦しました。

『第3大隊』と歴戦のつわものの『第100大隊』は正面から攻撃しますが、前方には地雷原があるため左右両側から攻撃を開始しました。狭く両側が崖になっている尾根道を登りながら多くの犠牲者を出しました。『第3大隊』では、I中隊が戦死5人、重傷40人を出し、K中隊では将校全員が犠牲となり、I中隊のバーニー・ハジロ上等兵が自動ライフルを撃ちながら突進し、機関銃座2箇所を破壊、数人を射殺、狙撃兵も2人射殺するという殊勲を挙げて目標地点を攻略しました。また、フジオ・ミヤモト軍曹(分隊長)は自分たちを狙っていた機関銃座を単身で攻撃し、自ら銃で撃たれながらも5人を射殺し、敵陣地を占領するという殊勲も挙げています。

3日目になると『第3大隊』では、大隊長パーセル中佐自ら先頭に立ち、日系二世たちは『バンザイ突撃』を敢行、ヴォージュ山中には『バンザイ!』、『ビッチ!』、『バカヤロ!』などの罵声が山中に響き渡り、バンザイ突撃』に怖気づいたドイツ軍兵士は退却していき、この稜線を確保しました。この時の罵声は麓の村まで聞こえたそうです。

『第442連隊』『失われた大隊』にたどり着いたのは10月30日でした。まず、『第3大隊』が地雷原を戦車で撤去して突入し、2個連隊がそれに続き、『第100大隊』が右翼から攻め込みました。

『失われた大隊』は、朝からのドイツの猛攻で全滅寸前でした。しかし、救出に向かった『第442連隊』もまた全滅に近い損害を出していました。『第100大隊』『第2大隊』は半分以下に減り、『第3大隊』にいたっては、1個小隊規模まで減るほどの損害を出していました。

『失われた大隊』は救出されてよろけながらも、麓の陣地に下がり食事と休息を与えられましたが、『第442連隊』には休む暇もなく、掃討戦に費やされて行きました。

10月28日に始まった戦闘は、11月9日に終わり、3日後に『第442連隊』を称える式典が行われました。

整列した『第442連隊』を閲兵した師団長ダールキスト少将は、不満げに

 

『全員集合させろと言ったはずだ!』

B・ミラー連隊長代理に尋ねました。

 

すると、B・ミラー連隊長代理は

 

『目の前に並ぶ兵がその全員です!』

という有名な言葉を発しました。

 

フランス到着時に2、943人だった兵力は、たった700人程に激減していました。

 

 第141連隊第1大隊『失われた大隊』の属する36師団はテキサス州出身でした。

当時のテキサス州は、与党であった民主党の大票田でした。つまり、ダールキスト少将は目の前の戦場を見ずに、後方のテキサス州州議会、与党民主党の評判のみを気にして指揮していたのでした!

 後日、ゴードン・シングルズ中佐(第100大隊長)は、准将に昇進した式典で、ダールキストと握手するのを拒否したそうです。

『失われた大隊』救出作戦は、第34師団ライダー師団長第5軍マーク・クラーク中将の指揮下ではありえなかった悲劇でした。

この戦闘を称えた『大統領部隊感状』には、第100大隊の功績について次のように記されているそうです。

 

『戦闘は4日目に入り、兵は疲労し、兵力は半減していたにもかかわらず、第100大隊は強力なドイツ軍の攻撃にもめげず前進し、孤立していた部隊救出に成功した。

日系部隊が示した例を見ない英雄行為、勇気、決意は、軍人精神が生きている証であり、合衆国軍隊のもっとも輝かしい伝統のページにあらたな栄光をもたらすものである。』

 

 

こうして、アメリカ軍人としても最高の名誉を獲得した『第442連隊』は、最高の栄誉を受けたことで、南仏で休養した後も、1945年3月には、また、イタリア戦線に戻り、ふたたび苛酷な戦場へ駆り出されることになります。

 

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日系人部隊とTBS『99年の愛』・映画『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(2)

2010/11/03 16:06

 

イタリア戦線に投入された『第100歩兵大隊』AFまでの6個中隊(1中隊は3個小隊)で構成されていました。当初、ハワイ出身の大隊長ファラント・ターナー中佐以下、ジェームズ・ラヴェル少佐ジョン・ジョンソン大尉、日系将校16名、そして日系二世兵で構成されていましたが、フォート・マッコイ基地ドイツ生まれのドイツ移民のカート・シュメル少尉が参加、キャンプ・シェルビー基地で新任の朝鮮系移民出身のヤング・オーク・キム少尉が参加するという奇妙な部隊でした。

また、アメリカ本土からの志願兵とハワイからの志願兵では、残された家族の扱いも違い、入隊当初はケンカが絶えなかったようです。(ハワイの日系人は収容所に入れられず、財産も没収されることはありませんでした。ハワイ出身者はお金も仕送りされ、バクチをしたり酒を飲んだりできましたが、本土出身の日系人はお金も家族に送らねばならず無駄遣いはできなかったようです。)

 

2次世界大戦中にアメリカ陸軍のなかで、単一民族で構成されていたのは日系二世部隊『第422連隊戦闘団』と、黒人(アフリカ系)で構成された『第92師団(バッファロー部隊)』アメリカインディアン情報部隊だけでした。それほど非白人(有色人種)は、白人からは「劣っている部隊」と見られ信頼されていませんでした。

日系二世部隊の合言葉はGo For Broke(当たって砕けろ!)』でした。

 

彼らの日系二世としての使命は、自分の国家(アメリカ合衆国)に裏切られながらも(排日法・・・強制収容所)、その国家に忠誠をつくし、日系人の誇りを見せるために、自らの命と引き換えに武勲を立ててそれを戦場で証明することでした。

日系部隊はおのずと勇敢に戦わざるをえませんでした。

 

イタリア戦線の初めてのドイツ軍との戦いで戦争の洗礼を受けた『第100歩兵大隊』は、ジレスビー大隊長のもと、ヴォルトノ川の渡渉中に将校として初めての戦死者(カート・シュメル少尉)を出し、ヴォルトノ川の対岸の600高地攻略では、正面攻撃をする同じ第133連隊の第1大隊を援護するために600高地の裏側から攻撃を行ない、多大な死傷者を出しながらも600高地の攻略に成功します。(この時にジョン・ジョンソン大尉タロー・スズキ大尉ヤング・キム少尉が負傷します。)

この時までの犠牲者は、戦死75人、重傷239人にのぼりました。

 

 

カッシーノへの道

 

600高地周辺

 

『第100歩兵大隊』カッシーノの手前で1944年の元旦を迎えました。この時期にはイタリアに上陸したときの1、300人の兵力は、死傷者が続出し800人に減ってしまっています。大隊長もジレスビー少佐が入院したため、キャスパー・クロウ少佐に変わっています。

 

一方、イタリア半島に残ったドイツ軍南西軍集団(ケッセルリンク空軍元帥指揮)イタリア中部の山岳地帯(全長300km)に防衛線の『グスタフ・ライン』を構築し、連合軍を待ち構えていました。

連合軍は、『グスタフ・ライン』に向かって右側をイギリス8が、左側をアメリカ5が担当し、イタリア半島を北進しました。そしてアメリカ第6軍を後方60kmにあるアンツィオに上陸させる作戦でした。

このアメリカ側の『グスタフ・ライン』の要衝が、カッシーノにあるモンテ・カッシーノ(標高516m)でした。

このモンテ・カッシーノ山頂には聖ベネディクト修道院があり、ドイツはここの頂上と山腹に砲塁を築き、カッシーノの手前のド川の両岸に石の壁を構築し2重の鉄条網を張りめぐらし、正面には3列の溝を掘り地雷を埋設し、市街の建物をすべて倒壊させて、モンテ・カッシーノ山頂から攻撃するアメリカが丸見えの状態で待ち構えていました。

 

 

モンテ・カッシーノの防御態勢

 

モンテ・カッシーノ攻撃

 

1944年1月20日にアメリカ第5軍(第34師団・第36師団)モンテ・カッシーノ攻略の作戦命令が下ります。

ド川の上流を第36師団が、下流を第34師団が進みます。

彼らは目を疑いました。

ドイツラビド川の上流のダムを決壊させ、周囲が泥沼の状態でした。したがって、アメリカは攻撃の主力である戦車の援護を受けられなくなってしまいます。

まず第36師団が航空機と砲兵部隊の援護でド川を渡りますが、甚大な損害(二個連隊が全滅に近い損害)を出しなんとか橋頭堡を確保しました。

そして1月24日深夜に『第100大隊』の所属する第133連隊に対し、ド川の対岸に橋頭堡を確保するよう命令が下ります。

彼ら(A中隊・C中隊)は泥沼の中を敵の証明弾に照らされながら、砲弾や迫撃砲や機関銃の集中砲火を浴び、多数の犠牲者を出しながら地雷の除去を続け、川岸の石の壁まで到達しますが、夜が明けてしまいます。

連隊長のマーシャル大佐モーゼズ中佐(第1大隊長)、ジム・クロウ少佐(第100大隊長)に対し日中の攻撃を命じました。クロウ少佐『日中の攻撃は自殺行為』と反対しますが、解任されて大隊長はデューイ少佐に変わりました。

翌朝、夜明けとともに彼らは出撃しました。

石の壁に至るまでの凍えるような冷たい泥沼の中を、次々と地雷や銃弾や砲弾によって倒され、負傷者すら救出もできずに多大な犠牲者を出し、やっとのことでたどりついた兵たちも、夜になってもドイツ軍の攻撃は止まず、照明弾や探照灯で捉えられ身を隠す所もなく、次つぎと銃弾や砲弾によって襲われ、ラド川を渡河することすらできず、連隊長も失敗を認めやむなく後退しました。(この時にモーゼス中佐デューイ少佐ジョン・ジョンソン少佐が戦死しました。)

 

このモンテ・カッシーノの戦場の日系部隊の戦況報告をしたAP特派員はこう記述しています。

『もし涙を電報で送り、それを活字で印刷することができるものならば、この記事はおそらく一面に涙で濡れていることであろう。記者はこの目で任務を越えた勇気というものが、どんなものであるかを初めて見ることができた。ハワイの日本人二世部隊の一隊が、ラド川を渡っていくのを見た。かれらは川の対岸まで突進し、その地点を40分以上も確保していた。しかしドイツ軍の全力をあげての砲撃に会って打ちのめされ、ついに退却してきた。世界中のいかなる軍隊といえども、勝利の戦いにおいてすら、これ以上の輝かしい栄光をかち得た者はないであろう。今日以後、もし日系アメリカ人の忠誠心を疑うアメリカ人があれば、記者はその人間と議論をするまい。ただ、その男の顔を足で蹴飛ばしてやろう』と。

 

大隊長はデューイ少佐が戦傷死したため、ジェームズ・ラヴェル少佐に変わりました。

『第100大隊』は2月8日からまた大攻勢をかけ、なんとかド川を渡ることに成功し、モンテ・カッシーノの南麓までたどり着きますが、他の部隊の応援もなく撤退せざるをえませんでした。

この後も、モンテ・カッシーノの防備は堅く、3月十日まで戦闘を続けますが、戦死48人、重傷134人、軽傷11人という損害を出し、サン・ジョルジョまで後退し休息を取りました。兵力は521人にまで減ってしまっていました。

『第100大隊』は、ここでキャンプ・シェルビー基地で訓練を受けた日系二世の増援(第一次補充兵151人、将校10人)を受け、ナポリに近いアンツィオへ向かいます。

ここで4月2日に大隊長がゴードン・シングルズ中佐に変わり、翌日キャンプ・シェルビー基地からの増援(第2次補充兵261人、将校15人)を受け、『第100大隊』の兵力は1,095人となりました。この補充兵は日米開戦前の入隊者でした。

 

 

 

モンテ・カッシーノの戦いは、その後膠着状態となり、5月下旬になってやっと『グスタフ・ライン』北翼が突破されて、ドイツが撤退し5月18日に終了しました。

 

 

 

 

破壊された聖ベネディクト修道院

 

 

現在の聖ベネディクト修道院

 

 

 

5月16日には、ドイツ軍装甲師団の動きを探るために、『第100大隊』ヤング・キム中尉アービング・アカホシ一等兵ら5名が偵察に派遣され、翌日にはドイツ捕虜を捕らえて戻り、第34師団ライダー師団長から殊勲十字賞(『議会名誉勲章』の次の2番目の高位の勲章:キム中尉アカホシ一等兵)を受けました。

そして『第100大隊』が属するアメリカ第5軍(第34師団・第36師団)は、5月23日に総攻撃を命令され、ローマに向けて進撃しました。

 

アンツィオからシビタヴェッキア

 

アンツィオ郊外の『シチリア・ローマ米兵戦没者墓地』

 

ところが、アンツィオから内陸を通ってローマへ抜ける国道7号線のアルバノ高地の峠に、ドイツが堡塁を築き抵抗していました。

このアルバノ高地の攻撃を第34師団配下の二個連隊(6,000人)が行いましたが、失敗に終わったため、やむなくライダー師団長が『第100大隊』(約1,000人)に攻略を命じ、防衛線の突破に成功しました。

こうして『第100大隊』の殊勲で、アルバノ高地のドイツ軍は退却し、アメリカ軍第5軍第8軍は無事ローマへと進撃することができました。

しかしローマへの一番乗りの栄光は『第100大隊』には与えられませんでした。6月5日にローマへの10km手前で突然の停止命令が出されたのです。これは輸送部隊、装甲師団を先行させるためでした。(*実際は国道7号線の北方のカシノ方向からの、国道6号線を進撃していたアメリカ軍第88師団が、6月4日に先行してローマに進駐していました。)

 

このころにはキャンプ・シェルビー基地からの第3次補充兵(112人、将校3人)が増援され、ようやく大隊としての通常兵力に戻っています。

 

イタリア戦線を行軍中の日系二世部隊

 

 

 

 

 

 

日系二世部隊を閲兵するマーク・クラーク中将

 

 

 

 

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日系人部隊とTBS『99年の愛』・映画『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(1)

2010/11/01 19:17

 

11月3日(水)からTBSテレビで5夜連続の橋田壽賀子原作のドラマ『99年の愛』が放映されます。

 

◆TBS開局60周年ドラマ 橋田壽賀子原作『99年の愛』11月3日()夜9時(5夜連続特別企画)

http://www.tbs.co.jp/drama/

 

また「すずきじゅんいち氏」のドキュメンタリー映画『442』も、11月13日(土)から新宿K`s Cinemaで公開されます。

 

442 日系部隊アメリカ史上最強の陸軍

http://www.442film.com/

 

この2本には共通点があります。

それは、第2次世界大戦の欧州戦線で多大な犠牲者を出しながら、米軍史上始まって以来の数々の勲章・感状を受けた米軍日系人部隊の『442連隊戦闘団』です。

 

 

 

 

 

 

★歴史群像45(2001年2月号)日系二世部隊の死闘『第442連隊戦闘団』

 

★ゴー・フォー・ブローク!―日系二世兵士たちの戦場 (光人社NF文庫)

渡辺 正清 ()

 

 442連隊戦闘団進め!日系二世部隊 (1979) (角川文庫)

矢野 徹 ()

 

  アメリカで先日10月7日に、記念すべき法案が成立しました。

 日系アメリカ人にとってはアメリカ人として最大な名誉となりました。明治初年に日本人が移住してから最大の評価を受けたのです。

 

◆第2次大戦の日系2世部隊に最高位の米議会勲章

2010.10.07 Thu posted at: 13:50 JST

 

法案に署名するオバマ大統領(中央左)

ワシントン(CNN) オバマ米大統領は5日、第2次世界大戦で米国のために戦った日系2世部隊に議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。同勲章は、米国で民間人に与えられる最高位の勲章。式典にはハワイ出身のダニエル・イノウエ上院議員など、存命の元部隊兵が出席した。

法案は、日系2世部隊の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績をたたえる内容。442連隊は、フランスのボージュ山地で包囲されていた大隊を救出した功績などが知られる。

米国に移住した日本人の子孫である2世は、当時反日感情が高まる中で差別を受け、米国に残してきた親族は強制収容所に収容されていた。兵士の多くは収容所で行われた募集に志願したという。

イノウエ議員は1945年に少尉として小隊を率い、イタリアで敵の軍と戦ったが、この時の負傷で右腕を失った。これまでに名誉勲章、青銅星章、パープルハート章などを受章している。

ハワイ出身のダニエル・アカカ上院議員は「日系米国人が民族性のみを理由に不当に抑留される中、この勇敢な男たちはわが国を守るために志願した。その勇気は戦争の勝利のみならず、より寛大で公正な国家への道を開く役割を果たした」との談話を発表した。

http://www.cnn.co.jp/usa/30000453.html

日系人部隊出身者に最高勲章=米大統領が法案署名(時事通信)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010100500553

◆日系人部隊に米議会金メダル オバマ大統領が署名(共同通信)

http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010100601000407.html

 

1941年12月7日の日本軍による『真珠湾攻撃』は、日本にとっても、アメリカにとっても悪夢の始まりでした。

そして、アメリカに移住した日系人にとっては、まさにまるで奈落の底に突き落とされたような厳しい体験の始まりとなりました。

真珠湾攻撃で沈没する戦艦アリゾナ

 

開戦当時の日系アメリカ人はハワイを中心としてアメリカ全土に29万人もいました。なかでもハワイは総人口42万人のうち4割が日系人ということで、日本軍がハワイに再来襲する恐れもあり、当時のハワイナショナル・ガードNational guard(米本土の州兵に相当)には日系2世が千数百人も所属しており、ハワイ住民から猜疑の眼でみられ、すぐ武装解除を受けました。

そして、翌年5月になると日系2世兵だけがオアフ島スコフィールド基地に集められ、「二世ハワイ部隊(のちの第100歩兵大隊)」(1、432人)が編成され、6月5日に商船マウイ号で本土に送られ、正式に『米陸軍第100歩兵大隊』(セパレート:所属の連隊・師団なし)と命名されました。

これが『442連隊戦闘団』の始まりです。

*一般の日系人・日系二世たちはそのままでしたが、不穏分子と見られ差別されたようです。

当時はドイツイタリアも敵国になっているのに、日系人だけが受けた差別です。

米本国のオークランドに到着した『第100歩兵大隊』は、ウィスコンシン州フォート・マッコイ基地に送られ、6カ月間の基礎訓練を受けました。(ここは日本旭川とほぼ同じ緯度なのでハワイ生まれの日系人には過酷な環境でした。)

そして、翌1943年1月に、米南部のミシシッピー州キャンプ・シェルビー基地に転属され、さらに厳しい訓練を受けます。そして米軍兵としての能力の優秀さを認められ、最前線に投入されます。(どうも日本人が米軍として使い物になるかのテストのようです。)

 

キャンプ・シェルビーでの訓練

 

一方、アメリカ本土の日系人(一世・二世)12万人も、1942年2月に住居の強制退去・土地などの財産没収を命じられ、全米10カ所の強制収容所(内陸部)へ送られました。(ここは強制収容所(concentration campと呼ばれずに、再配置収容所(Relocation campと呼ばれたようです。)

 

 

 

マンザナ収容所へ向かう護送列車に乗り込む日系人

 

 

 

マンザナ収容所(カリフォルニア州)後方はシエラネバダ山脈

 

日本からの移民(とくに二世)は、アメリカに帰属意識が強く、1942年11月にルーズベルト大統領に日系二世に対する兵役を請願し、1943年1月になって認められ、2月1日にキャンプ・シェルビー基地『第442連隊戦闘部隊』(第2歩兵大隊・第3歩兵大隊・第522砲兵大隊・第232工兵中隊の混成部隊、独立で行動可能な連隊戦闘団)が誕生しました。(米本土から1,200人(うち800人採用)、ハワイから10,000人(うち2,686人が採用)志願した。)

 

 

アーカンソー州キャンプ・ロビンソンに入営した新兵たち

 

 

ハワイから志願した日系二世兵士たち

 

 

 

アメリカ合衆国地図

 

このころはまだ『ノルマンディー上陸作戦』も行なわれておらず、北アフリカ軍を追い払った連合軍(英・カナダ連合軍第8軍:モンゴメリー司令官11万5千米軍第7軍:パットン司令官6万6千)は1943年7月~8月にかけて地中海からシチリア島を攻撃し、軍をイタリア半島に退却させ、シチリア島を解放しました。《『ハスキー作戦』

つづいて9月9日に米第5軍(マーク・クラーク中将)を主力とする米英連合軍(主力5万5千、後続11万5千)が、艦隊の支援の元にイタリア半島サレルノに大攻勢をかけ、軍を破りイタリア南部を占領します。(イタリアは9月3日に降伏済み)《『アヴァランチ(雪崩)作戦』

 

 

イタリア戦線

 

 

 

イタリア半島地図

 

そして、先行して訓練された『第100歩兵大隊』は、米第5軍の第34師団第133連隊に属して9月22日に北アフリカ経由でサレルノに上陸し、イタリア半島を北上し、モンテマラノで初めてドイツ軍と交戦しました。その後チウサノ村で、ドイツ軍との本格的な戦闘となり、この時の戦闘で最初の戦死(1名、ジョー・タナカ曹長)・戦傷者(7名)が出ました。

しかし『第100歩兵大隊』は、激戦を重ねながらもドイツ軍を駆逐し、ベネヴェントまで辿りつき初めての休息をとりました。

サレルノ上陸以来三週間を経て、10月15日までには、戦死3名、重傷23人、負傷13人でした。

ここまでの戦闘を見た米軍幹部(米軍第5軍マーク・クラーク中将)は、この『第100歩兵大隊』の戦闘能力を評価し始めました。

 

 

 

カシノへの道(1)

 

 北進を続けた『第100歩兵大隊』はヴォルトノ川を渡ろうとした際に、ドイツ軍機に攻撃(機銃掃射)を受けましたが、この時にアイゼンハワー大将セオドア・ルーズベルト・ジュニア准将セオドア・ルーズベルト大統領の息子、映画『史上最大の作戦』ではユタ・ビーチの指揮官:ヘンリー・フォンダが演じた。戦争中にフランスで心臓発作で死亡。フランクリン・ルーズベルト大統領のいとこの子)も同時に攻撃されて、どちらもとっさに逃げて助かったそうです。

 

 

 

 

 

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プラントハンターと日本(3)

2010/10/03 16:37

 

ロバート・フォーチュンは、横浜神奈川周辺での植物採集を終えると、R・オールコック公使の招きで江戸へ向かいました。

 当時の江戸は、『桜田門外の変』の直後で、攘夷浪士達がうろうろしていて(長州藩の攘夷派も)、かなり危険だったと思われますが、R・フォーチュン中国本土で海賊に襲われたり、アヘン中毒者に身辺を脅かされた経験もあり、武装しており、江戸への旅行に関してそれほど心配はしていません。

 それどころか、江戸へ行く途中の『大森梅屋敷』では、接待に出た若い娘達を見てデレデレしています。

 

大森の梅屋敷

 

  (前略)

騎馬で約二マイル行ってから、大森という所に着いた。そこには梅屋敷という立派な茶屋がある。梅屋敷は「梅の木の屋敷」という意味に解釈される。

  そこへ亭主とかわいらしい娘達が迎えに出て、例のごとく食事をするよう勧誘された。梅屋敷は茶屋の中でも最上級のもので、当世風に設計されている。引戸で互いに各室が仕切られ、掃除のゆきとどいた畳敷きの床上に、土地の者がすわって、食事をしたり、茶や酒を飲んでいた。

(中略)

前述のように、われわれはその時、本当に食事を必要としたかどうか、それとも妓達の笑顔を見ないではいられなかったかどうか、いずれにせよ、一般読者にとっては、さほど重要なことではない。が、ともかく、梅屋敷で綺麗な愛らしい妓達に取り囲まれて、芳ばしい茶をすすっていたことは確かなことである。

(中略)

とにかく私に侍った小娘達は、輝くばかりの白い歯を持ち、唇を深紅に染めていた。

 

接客婦

 

日本の宿屋の亭主は、いつも雇い女に眉目好き娘達を手中に収めている。

(中略)

日本女性はシナの女性と比べて、作法や習慣がひどく違っている。後者は外国人の顔を見ると、すぐに逃げ出すのが常識になっている。日本女性はこれに反して、われわれに対して、いささかも疑惑や恐れを見せない。彼女らは茶屋に笑顔でやって来て、客の周りに群がり、客の服に触ったり、平気で握手する。彼女達の作法はシナ人よりはずっと自由であるとはいえ、私は、彼女達の行儀が、海の向うの内気な姉妹より劣っているとは思わない。

きれいな女中達がお茶のほかに、いろいろな菓子やゆで卵を数個盆にのせて運んで来た。そして卵の殻をむいて私に勧めた。私は愛想のよい女たちに取り囲まれていたので、このすばらしい場面を誰かが見たら、きっと大いに面白がるだろう。

 

 

 

大森梅屋敷 (サライ1999年5月6日号より)

 

  

 

こんな感じでしょうか (長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)

 *R・フォーチュンは結構真面目な人だったようです。

 

そしてR・フォーチュンは、当時高輪の東禅寺にあった英国公使館を拠点として、江戸周辺を回遊してまわります。

 

 

 

 

高輪・東禅寺(英国公使館) (長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)

 

まずは来日外国人が江戸に来て先ず訪ねる『愛宕山』へ行き、江戸の全景を眺めて驚いています。

 

江戸市外の眺望

 

   山麓に馬を預けて、ふもとから山頂まで積み重ねた長い石段を登り切ると、神殿の前や周囲に休憩所があった。そこへ待ち構えた花のような娘達が、いろいろな茶碗に注いだ熱い茶を勧めた。しかし、その時は大パノラマのように、眼下に果てしなく広がる、美しい町に見惚れていたので、神社や休憩所やきれいな給仕女さえも眼中になかった。

  私はそれまで日本の首都、江戸の区域を十分想像しても見なかった。シナを去る前に、私はそこが二百万の人口をもつ大都市であるという話を聞いていた。けれども実を言うと、それらの噂を非常に疑っていた。江戸の話は、区域や人口のどちらも、大分誇張されているかも知れないと考えていた。しかし、現実に私の眼でこの町を見渡して、以前に聞かされていたことをすっかり確めた。

   われわれが今来た、樹木の茂る品川の郊外一帯の西南の方を振返って、次第にゆっくりと目を南に向けると、東の方に三日月か半月形をした湾の海岸沿いに、幾マイルも延びている江戸の美しい町並が見えた。すがすがしい秋晴れの午後で、いともあでやかな町の女神が横たわって、日光浴でもしているように目に映った。湾の海面はガラスのようになめらかで、あちこちに漁船の白帆やほかの和船が散在していた。また湾内には幾つかの台場砲台が、この城下町を防衛する砦を構成していた。はるか遠方の対岸に、低い山並〔房総半島〕がかすんで見えた。東から北の方へ眼を向けると、家並や寺や庭で埋まった広大な低地〔下町〕が一面、はるか向うの水平線までつづいているように思われた。四、五カ所に木造の橋が架かっていた大川〔隅田川〕は、その辺の町を貫流して、江戸湾に注ぐ。

   二マイルほどの地域に、家並の密集した下町の反対側に、厚い岩壁と深い堀に囲まれた、大君〔将軍〕の宮殿〔城〕と官庁街があった。城壁の外側には、何マイルもある広いまっすぐな街路と、厩のような長い建物がある。その界隈には領主〔大名〕とその多数の家来達の居宅がある。

  広漠たる市街を越して西方に眼を移すと、その背後に一連の雑木山があり、その傾斜地は家や寺や樹木でおおわれていた。江戸でとりわけ賑やかな場所は、この丘陵の向うになるので、今はわれわれの視界からさえぎられて見えなかった。

 

 

 

愛宕山からの眺望 (CG日本史シリーズ⑤『江戸の風景』 学研より)

 

また江戸郊外を散歩して、江戸の自然と町人や農民の暮らしに感嘆しています。

 

 

花を愛する国民性

 

馬で郊外の小ぢんまりした住居や農家や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭をつくっている。日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優って見える。

 

印象的な並木道

 

   私は他のどこの国を回遊しても、その時通り過ぎたような印象的な小道に出会ったことはない。その時ふと、イギリスの田舎のどこかで見たような気がした。しかし、私は、イギリスには日本の風景に比較できるものは、何もないことをすでに認めているにもかかわらず、その美しい小道が、母国の景色に似ている、と思ったほど、気に入っていた。

   大きな並木道や、松、とくにスギ(Cryptomeria)の並木にしばしば出会ったが、道ばたに大変快い日蔭をつくっている。ときどき種々の種類の常緑のカシや、時にはスギやほかの常緑樹でつくられた見事な生垣に注目した。生垣は丁寧に刈り込まれて、手入れがゆきとどき、時にはかなりの高さに整枝されて、イギリスの貴族の庭園や公園でよく見かける、ヒイラギやイチイの高い生垣を思い出させる。どこにもある小屋や農家は、きちんと小ざっぱりした様子で、そのような風景は、東洋の他の国ではどこにも見当たらなかった。旅人の休む茶店の傍らを何度も通ったが、その裏にささやかな庭や養魚池があったのを、馬でゆっくり通りすがりに、チラと眼に入れた。景色はしじゅう変化するが、いつも美しい丘、谷間、広い道、日蔭のある小道、そして家々や庭などで見かける人びとは勤勉で、労苦にくじけず、あきらかに現状に甘んじて満足している。

 

R・フォーチュンは、そしてお目当ての江戸の植木屋巡りをします。これには同行した警護の幕府役人達が手こずらされたようで、攘夷浪士達からR・フォーチュン達一行を守るために、行きと帰りの道順を毎回変えたようです。

 

第七章 染井村の壮観――植物さがし

 

江戸の東北郊

 

   日本の首都、江戸の郊外には、商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分のある人びとは、すべての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さず訪ねることにした。

(中略)

団子坂の菊人形

 

   加賀屋敷を過ぎると、東の郊外に達した。そこから二、三マイルにわたって、道の両側の所々に家並のある、長い道がつづいている。この道を右に曲がって、日蔭のある小道を通り過ぎると、間もなくあこがれの団子坂の町に着いた。この美しい場所は、両側に樹木の多い丘の谷間にあった。

   この庭で一番珍しいものは、菊の花でつくった人形であった。数千の花を使って作られた菊人形の美人が、微笑を浮べて、茶屋や休憩所から出て来る客をしばしば驚かしていた。評判の梅林が庭内のいたる所にあり、小さな池や築山の島が、全体の眺めを引立てていた。

   (中略)

だが、前に私が聞いていた話から、彼らが私を欺していることを察したので、自分で大体の調査をして見ると言い張った。彼らは私がひとりで探す決心を見て、近くに別の場所を知っている風で、そこへ案内したいと申し出た。その話をありがたく受けて、そこへの案内を頼んだ。

   丘の頂上の方へ少し歩いてから、恰好のよい生垣が並んでいる、長い田舎の一本道を通って行った。そこには日本の鑑賞植物を豊富に植え込んだ、大きな植木屋が何軒もあった。

 

 

 

団子坂 (サライ1999年5月6日号より)

 

どうも団子坂の植木屋はたちが悪く、値段をチョロまかしたようです。

 

持主は、最初私が選んだ植物を売るのか売らないのか、はっきりしなかった。彼らはいつも、この二つの点については、役人にまかせていたが、この時も、総計をいくらにするか、を訊ねていた。私はこいつらが、普通の価格や市価よりも、不当に高く払わせたという印象を打ち明けねばならない。

(中略)

あくる朝、私が植物を買った植木屋が、そろって英国公使館にやって来て、植物と引替えに代金を受け取った。たぶん役人にいくらかの割前を出したのだろう。正当な取引ではないから、その場で文句なしにこっそり行われたのだろう。

 

二、三日たってから肝心の大きな植木屋の集まった『染井村』へ行くこととなります。

R・フォーチュンはもはや感動の連続でした。

 

染井村の壮観

 

   交互に樹々や庭、恰好よく刈り込んだ生垣がつづいている、公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が、一マイル以上もつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。どの植木屋も大同小異なので、その一つを記述すれば、全体のたくみな趣向がわかるだろう。

 

すばらしい観葉植物

 

   染井や団子坂の苗木園のいちじるしい特色は、多彩な葉をもつ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる、自然の珍しい班入りの葉をもつ植物を賞讃し、興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、私の知る限りでは、日本では千年も前から、この趣味を育てて来たということだ。その結果、日本の観葉植物は、たいてい変わった形態にして栽培するので、その多くは非常にみごとである。これらの優秀な多数の植物について、ある程度の概念を与える品目を多少、次に紹介する。

   マツ、ネズ〔社松〕、ヒノキ(Reitinosporas)、ナギ(Podocarpus)、シキミ(Il-liciums)、アセビ(Andromeda japonica)、サカキ(Euryas)、グミ(Eleagnus)、トベラ(Pittosporum Tobira)、マサキ(Euonymus)、タラノキ(Aralia)、クスノキ(Laurus)、イチョウ(Salisburia adiantifolia)などである。ところが、イギリスでは、前述のように、斑入りの種類は、わずかにアオキだけしかない。それがここには、さらに斑入りのラン!斑入りのシュロ!斑入りのツバキ!そしてチャの木でさえも、まさしくこの「楽しき一族」を表徴している。「アジアで最上の針葉樹の一つ」を確信する美しいマキも、葉に金色のたてじまの入った変種が栽培されていた。

   

 

 

染井村(現在の巣鴨・駒込周辺) (サライ1999年5月6日号より)

 

そして帰りに、当時の江戸の富裕な粋人の遊び場所『王子飛鳥山』へ寄りました。

ここは八代将軍吉宗の木を植えてから、江戸の庶民の憩いの場所で、四季折々に多数の行楽客でにぎわった場所でした。

ここにはたくさんの茶屋があったようです。

 

江戸のリッチモンド

 

   王子は、言わば、日本のリッチモンド〔ロンドン西郊の住宅地〕で、そこにはイギリスの「スター・アンド・ガーター・ホテル」に匹敵する有名な茶屋がある。ここは江戸の善良な市民達が一日の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかにこれ以上の娯楽場を探すのはむずかしいだろう。やがて道は小丘の下へ出た。道の両側には、郊外の平凡な住宅や庭の生垣がつづいていた。村に近づくと多勢の人々が外国人を見に出て来た。近頃では外国人もとくに珍しいことではないのに……。幾人かの子供に馬をあずけて、われわれは茶屋の中へ案内され、愛想のよい娘に迎えられた。

   茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人びとが愛好するに足る場所だと思った。

(中略)

将軍の狩猟場                                                           

 

   私の主な目的は近くの丘に登って、このあたりの景色を眺めるためであった。間もなく頂上に来ると、そこは所々に巨木がまばらにある草原の台地で、将軍の狩場である。将軍はそこで時折り、日本産のアオサギを追う鷹の飛翔〔鷹狩〕を観覧するのである。鷹は日本では神聖視され、当局から厳重に保護されていた。その丘にはまら帝国の兵卒〔幕臣〕が行う弓場と、将軍の随員達が食事をする食堂があった。

   この高台からの眺望は実にすばらしかった。北の方に高度に耕作された農地が広がっていた。ちょうど米の収穫時期で、稲田は熟した果実で黄色に染まっていた。小麦や大麦の芽生えが、すでに一インチぐらいずつ地上に出て、そのいきいきした緑と、稲田の黄色とがよい対照であった。その辺一帯は樹木がよく茂って、小川が谷間を曲がりくねって、江戸湾の岬の方へ流れているのが眺められた。この場所は全体的に見て、これに優る将軍の快適な狩場を見付けることはできないと思う。

   

  

 

 王子・滝野川の風景             王子の茶屋(長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)

 

また後日、浅草方面を回遊してまわります。

そして日本に圧倒され、即断での匐枝を売ってもらい公使館へ帰りました。

 

浅草寺と花園

 

   われわれは大通りの突き当りで、巨大な寺院の前に到着した。大きな階段を登ると、幅広い扉が開かれていて、須弥壇の上に蝋燭がともり、僧侶達が読経の最中であった。わけの分らぬ音響、太鼓を打ったり鉦を鳴らすなど、私がしばしばシナの仏教寺院で聞いたのと同じようで、以前の経験談の繰り返しであった。

    (中略)

   ここは江戸の近くで、多種類の美しい菊で有名である。われわれが訪ねた時は花が満開であった。イギリスの花屋はきっと、ハンマースミス寺院や、ストーク・ニューウイントンから、はるばる浅草寺の菊の花を見に来て、どんなに目を楽しませたいことだろう。

   私は形も色も特種で実にすばらしく、イギリスで現在知られた、どんな種類とも全く異なった品種をいくつか手に入れた。ひとつは、赤色の長い花弁が毛髪のように咲き乱れて、黄色の花蕊がショールやカーテンの房のように見える。ほかのは広くて白い花弁に赤い線が入って、カーネーションかツバキのようであった。別のは大形で光沢のある色彩が目立っていた。もしも私が引きつづき、これらの変種をヨーロッパに紹介することができたならば、私が以前手掛けた「慎み深い」〔花ことば〕ヒナギクが、ポンポン咲き菊(イギリスで成功した最高の品種改良)の原植物になったように、菊もいちじるしい変化を生じるかも知れない。

 

 

浅草寺 

東洋のキク

R・フォーチュン中国舟山列島で採集したキクを、一八四六年にイギリスに持ちかえり、ロンドンの園芸協会で展示しました。

そして、二度目の中国旅行でも、珍しいキクを持ちかえっています。

しかし、この日本旅行の時のキクが最良であったらしく、団子坂染井で購入したものをウォードの箱」で持ちかえり、そののちスタンディッシュ・アンド・ノーブル商会』で改良、繁殖されて、イギリスのみならずヨーロッパ全土を席巻したようです。

日本キクは遅咲きなので、そこをフランストゥールーズの園芸家、M・デローが改良し、早咲きのキクとなり一八七〇年代に一大ブームを起こしたそうです。

一八七六年三月一八日号の『ガードナーズ・クロニクル』はこう言っています、

「日本のキクはたいへん奇妙で、おかしなものだ。けれどもじつに美しく印象的である。それは秋に咲く数少ない花を自宅で育てる装置をもっている人に、すぐに好かれるようになった。」

しかし、こうも言っています。

「ふつう、十一月の半ばあるいはもっと遅くにならないとキクの花芽は十分に発育しない。だからキクは露地栽培に向かない。」

 

 

1900年のパリ万博で大賞に受賞した日本のキク (サライ1999年5月6日号より)

 

 

変わった形のキク『菊の香』 (サライ1999年5月6日号より)

 

 

ヨーロッパのキク  (サライ1999年5月6日号より)

 

産業革命後のヨーロッパでも、温室をもつ園芸愛好家しかキクを育てることが出来なかったことが分かります。

ヨーロッパでも園芸は庶民のものではなかったんですね。

 

ところが、当時の日本では園芸は庶民~富裕層まで一般的なものでしたし、植木屋も染井村団子坂などは、五十軒ぐらいの植木屋がかたまっていたそうですから、一般庶民まで浸透していたことが分かります。

江戸時代の日本の特色は欧米と違い庶民文化が発達していたことでした。

一般庶民が園芸を楽しめるのも、生活に余裕がある証拠です。

R・フォーチュンも中国での採集旅行と違い、団子坂や染井に行けばいくらでも植物を手に入れる事が出来たし、英国公使館には毎日のように植木屋が植物を売りに来たそうです。

日本での植物採集は、日本は植木屋がたくさんあって、園芸が盛んだったので、珍しい植物でも結構楽をして手に入れる事が出来たんですね!

 

R・フォーチュンは、この秋~冬にかけての採集旅行だけで物足らず、翌年の春~夏にかけて、もう一度来日します。

 

 

 

 

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プラントハンターと日本(2)

2010/10/02 15:53

 

ラザフォード・オールコック英国駐日公使とともに、外国人で初めて富士登山をしたJ・G・ヴィーチは『富士山の植生分布図』を作成するとともに、25種類の針葉樹の種子と標本も採集したようです。

そのころ少し遅れてロバート・フォーチュンが来日しました。フォーチュンには前述した旅行記中国北部、三年間放浪の旅』(1847)中国、茶の産地への旅』(1852)のほかに『江戸と北京』(1863)があり、この本は、みなさんもご存じの通り講談社学術文庫から出版されています。

 

『江戸と北京』R・フォーチュン著/三宅馨訳 講談社学術文庫

 

   

ロバート・フォーチュン   J・G・ヴィーチ

 

ところがJ・G・ヴィーチには、著述した旅行記もないばかりか、日本を離れたのち1864~66年にかけてオーストラリア南海諸島を採集旅行しますが、1870年に31歳という若さで結核を患って急死してしまったので日本での活動の詳細はよく分かりませんが、どうもR・オールコック公使と活動を共にしたようで、あまり自由な活動はできなかったようです。それでも彼は、ヤマユリシデコブシクリンソウサクラソウ属のprimula amoenap.cortusoides、彼にちなんだツタAmpelopsis veitchii(現在はParthenocissus tricuspidata)、そして17種の針葉樹、なかでもカラマツヤワラスギネズなどを欧米に紹介しました。

また、R・オールコックの著書『大君の都』の中の「江戸・神奈川近郊に生育する主要樹木」には36種の植物(スギケヤキカヤサワラキリなど)の情報が記述されているそうですが、これらはJ・G・ヴィーチの手によるものだったようです。(残念ながら岩波文庫の『大君の都』では省略されています。)

そのなかでもヤマユリが、ヨーロッパでは一番インパクトがあったようです。

 

   

 

ヤマユリ 「黄金のユリ」「金色の筋の入ったユリ」「驚嘆すべき美しさ」と呼ばれ、大評判となったようです。

サライ 1999年5月6日号より引用

 

ヤマユリR・フォーチュンシーボルトも同じ時期にヨーロッパに紹介しています。

またコウヤマキなどもR・フォーチュンJ・G・ヴィーチが同じように紹介しています。

 

 

 

コウヤマキの載った記事

 

1860年〔万延元年〕十月十二日長崎に上陸したロバート・フォーチュンは、まず一ヶ月ほど長崎に滞在し、地元の友人マッケンジー氏と貿易商デント商会エヴァンス氏とともに、長崎の郊外を訪れ、シーボルトの住居を訪ねたり、植木屋を見たりして過ごしました。

R・フォーチュンの長崎の印象は

 

花好きの市民(長崎)

 

 高級役人や豪商や隠居した人たちの屋敷は、おおむね一階か二階建で小さいが、気持のよい清潔な高台の住宅地にあった。住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず、花好きなことであった。良家らしい構えのどこの家も、一様に裏庭に花壇を作って、小規模だが清楚に整っていた。この花作りは、家族的な楽しみと幸せのために大変役立っていた。

 日本の中流以下の民家や商店は、表や裏を開け放してあるので、私は町を歩きながら、ささやかな花壇をよく覗き見した。そして目につくものを見つけると、どうしても中へ入っていかずにはいられなかった。どこの家でも非常に丁寧に歓迎してくれたので、私は彼らが大切にしている花や盆栽を勝手に見てまわった。

 ある家の庭はとても狭くて、ちょっとした食堂ぐらいしかなかった。けれども一見して、なかなか変化があって、芝の築山は楽しい眺めだし、芝の上には面白い形に刈りこまれた盆栽が植えられ、かわいらしい池には金魚や銀魚〔銀色の中国金魚の一種〕のほかに、亀が興を添えていた。こうして家から庭を眺めるのは気持のよいものである。

 その辺で良く目にふれた植物は、ソテツ(Cycas revolute),ツツジ(Azaleas)、それと私がシナからイギリスへ移植したものと同じ種類で、小形の美しい竹のほか、松、杜松、イチイ、マキ、ラカンマキ(Rhapis fLabelliformi)、観音竹、羊歯類などである。とにかくこれらの庭は、労働者の庭として特筆に値するといってよいだろう。

 長崎に住んで、広い趣味や道楽をやっていけそうな富裕な日本人は、高級な庭園を持っていた。その庭も我々の趣向から見れば小規模だが、労働者階級の庭よりはぞっと大きく、およそ四分の一エーカーの広さで、たいてい芝を一面に植え、所々に小さな築山を作ったり、池を掘って変化をつけている。

 これらの庭で、シナでも世界の他の国でも、ロンドンの展覧会ですらみたことのない、非常に大形のツツジを見た。その一本を測って見ると周囲が四〇フィートもあった。いずれもきれいに円形に刈り込まれて、上部がちょうど食卓のように、まったく平らに手入れされてあった。花盛りの時はさぞ華麗な眺めだろう。この庭で、ツワブキ(Farfugium grande)と、後述する種々の植物を見たが、これらの植物は、下層社会でも愛玩していたことを付け加えておく。

 

日本を訪れた外国人がまず記述しているのは、やはり日本の風光明美なことと、日本の下層階級の人でもみんな植物(とくに花)が好きで、どんな家にも鉢植えや小さな庭などがあった事です。  

これは当時の日本人の庶民(町人や百姓)が、支配階級からそれほど搾取や酷使をされていないことの証明ですね!(一部の被差別民は別ですが)

 

シーボルト『シーボルト事件』の時の日本追放措置が解除され、1859年に息子アレキサンダーとともに再来日していました。

シーボルトヨーロッパに紹介したものにカノコユリもあり、これもイギリス王立園芸協会理事長のジョン・リンドレーが絶賛し、「このユリにはルビーやガーネットか付いており、水晶のように輝いている」とまで言われ、また、雑誌『ボタニカル・レジスター』では「もし美しさにおいて最高のものがあるとすれば、それはまちがいなくこの花である」とまで書かれたそうです。

 

  

 

カノコユリ

サライ 1999年5月6日号より引用

 

そして、R・フォーチュン神奈川宿に滞在し、ローマ字の発明で有名なヘボン博士(聖公会の宣教師)宅を訪ねたり、また、郊外(三ツ沢)の豊顕寺(現在の豊顕寺・市民の森)を訪れ、コウヤマキを見つけ感激しています。

 

 

          

 神奈川宿 

 

   

 

(イチハツの生えた農家)

 神奈川周辺(金沢)の農家

 

豊顕寺

 

 

 灌木の茂った丘にはさまれた肥沃な美しい谷間の道を行くと、稔りゆたかな稲田を灌漑した清らかな水の流れが、海の方へ流れていた。ちょうど十一月初めで、黄ばんだ稲は農夫の刈入れを待つばかりである。その日は天高く澄み、太陽が頭上に輝く秋日和で空気は清涼、万象ことごとく無上の快楽を満喫した。

   二、三マイルの行程で豊顕寺に案内された。広い坂道を登った所に寺門があり、その周辺に見事な巨木がうっそうと聳えていた。本堂の中庭と前庭に、傘松と呼ばれる立派な目新しいマキに出くわして欣快に堪えなかった。これはコウヤマキ(Sciadopitys verticillata)でいわゆる日本の高野山の槇である。

(中略)

コウヤマキは立派な樹木で、興味がある。濃緑の輪生の広葉を持ち、傘のような形をしているので、他の針葉樹と同種類とは思えない。外観は概して円錐形で、広がらず、枝や葉が密生して、幹が完全に隠れてしまうほどである。だが、この立派な樹木がはたしてイギリスの気候に耐えられるかどうかは、さらに我々が実際に経験してみた上でなければ、なんとも言えない。しかし、もしそれが可能であったとすれば、イギリスの鑑賞用松類の目録には、大きい掘り出し物である。

 

  

 

また、日本人のガイドを募集し、トミという日本人に珍しい植物のある場所を探させて、横浜郊外の東林寺(在の横浜市港北区 篠原町)を訪ねて、アスナロを発見し、トミと一緒に種子を取るだめに木をよじ登ったようです。

 

 

東林寺のアスナロ

 

   東林寺は小ぢんまりとした寺で、たった一人の僧と尼が仏に仕えていた。だが、本堂は整然と清掃されており、床には畳が敷かれ、壁には彼らが美術作品を高く評価していると見えて、多数の絵画が飾ってあった。その後私は彼らの熱心な頼みで、「絵入りロンドン・ニュース」とイギリスの漫画雑誌「パンチ」を贈ったら、非常に喜ばれた。

   僧と尼は初対面の私を丁寧に歓迎してくれた。彼らはトミと親しいことが判ったので、私もすぐに打ち解けた。狭い縁側の障子を開けて、清潔な畳の上に坐るようにと招じ入れた。そして牛乳や砂糖のはいらない、シナ風の上等なお茶が出されたが、すこぶる快適であった。茶を啜りながら、しばらく辺りの風景を観察した。静かな人気のない稲田が前景をなし、その両側や後ろの丘には多種の木々が密生していた。松や常緑の柏、栗、竹、シュロなど、どこにでもある種類であったが、シュロだけは幾分熱帯的風趣を呈していた。そして私の坐っている右手の丘に、それを観るためにやってきた見事なアスナロ(Thujiopsis dolabrata)の一群を見付けた。

   (中略)

   アスナロは美しい樹である。垂直にそびえて、均斉のとれた高さは八〇-一〇〇フィートに及ぶ。こまやかな暗緑色の葉が、幾重にも重なり合って茎に付着しているので、ちょうど組紐を編んだような外観を呈している。銀色の葉裏が、風に吹かれると幾分目立って見える。高い枝の辺りに果実の房を認めたが、とても手はとどかない。そこで木登りの得意なトミと私が、靴を脱ぎ捨てるが早いか、アスナロの木によじ登ったので、びっくりした坊さんは、声を呑んで突っ立ったまま、われわれの行動を見上げていた。

 

そして、横浜に居住していた医師のホール氏の庭でアオキの雄木を発見し、これを譲ってもらうことに成功し非常に喜んでいます。

ヨーロッパアオキは斑入り(まだら)のもので、また雌木だけなので実を付けなかったそうです。(雌雄異株)

R・フォーチュンの来日の主目的も、このアオキを探すことだったようです。

このアオキ(雄木)R・フォーチュンヨーロッパに持ちこんだようですが、一時は普通の雌木1000倍の値が付いたそうです。(日本ではどこでも見かける普通の木ですが?)

日蔭でも、スモッグの中でも育つので、北ヨーロッパでは歓迎されたようです。

 

アオキの雄木

 

   アオキの新種があったが、それは英国種の斑入りではなく、光沢のある濃緑の葉を持っていて、森の日蔭や生垣でよく目についた。これはそでに英国にも輸入されているので、立派な常緑灌木として鑑賞されるだろう。そして冬から春にかけて、英国種のホーリー・ベーリーによく似た、オリーブと同じくらいの大きさの獎果が沢山実る。

   私の訪日の目的の一つは、イギリスの在来品種のアオキの雌木のために、雄木の品種を手に入れることであった。これは恐らく、イギリス人が所有するものとしては、最も耐寒性で、有用な外来種の常緑灌木である。この植物は英国の厳冬にも寒害はなく、またロンドンのスモッグの中でも、他の植物よりもよく生育する。だから公園や街の広場やロンドン市民の家の庭にも、どこにでも見られる非常に普遍的な植物の一つである。しかし英国では、私が日本で見たように、この木に深紅色の果実がいっぱい実っているのを見た者は、一人もいない。

   この木は雄花と雌花が、それぞれ別株を持つ植物の部類に属している。非常に珍しいことだが、ヨーロッパ産の本植物はみんな雌木で、従って果実不在なのである。私は日本に到着すると間もなく、この興味深い品種の雄木を探した。そしてやっと横浜のホール氏の庭で発見したのである。ホール氏は非常に有益な日本植物のコレクションを持っていたので、私は彼から多くの貴重な情報や援助を受けることができた。こうして得たアオキの雄木をウォードの箱でイギリスに送ったが、無事に着いて、バクショットのスタンディッシュ氏の苗圃で栽培されている。私は非常な興味をもって、この植物の移植の結果を楽しみに待っている。読者諸君も、イギリスの冬から春を通して、深紅色の実をいっぱい付けたこの植物が、われわれの家の窓や庭を飾る情景を想像されたい。そのような結果の表れは、私がイギリスからはるばる日本に旅行しただけの価値があると思う。

 

   

アオキ(アウクバ・ヤポニカ)雌株 ツュンベリー著『日本植物誌』

サライ 1999年5月6日号より引用

 

 

アオキの雌株(実付き)

 

 

パリのアオキの植込み

サライ 1999年5月6日号より引用

 

 

ヨーロッパ(パリ)のアジサイとツツジ 

*シーボルトが持ちこんで改良され繁殖した。

 サライ 1999年5月6日号より引用

 

       

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日本の開国と外国人の富士山初登頂

2010/09/30 17:27

 

近世日本の鎖国の扉をたたいたのは、アメリカペリー提督と思われますが、それより前にも1792年にアダム・ラックスマン大黒屋光太夫を伴って来日し、開国を迫っています。また、1804年にはロシアレザノフが、1811年にはロシアゴローニンが来日して捕縛され、一方、日本人の高田屋嘉兵衛が拘束され、結局それぞれを交換することで事なきを得ましたが、結局、国交を結ぶことはありませんでした。

1844年には、オランダ国王ウィレム2世が江戸幕府に親書を送って開国を促しているんですね。

そして、1846年にアメリカビッドル提督浦賀に来日し、ポーク大統領の親書を手渡して国交と通商を行うことを促していますが、幕府はこれを拒否してしまいました。

ペリーの来航までに10回も諸外国()の船が来日し、開国を迫っています。日本人も1840年のアヘン戦争中国(清)が敗北し、開国させられたことから危機意識をもった人々は、いずれ日本も開国をしなければならないことを自覚していたと思います。

そういうことで再三に亘って、諸外国が開国を迫ったのに、『異国船打払令(無二念打払令)』を廃止し、『薪水給与令』を出しただけで当座をしのいでいただけでした。ペリーの来航もオランダ商館ドンケル・クルチウスから聞いていたんで、突然来航したわけじゃりませんでした。

 

そして1853年にマシュー・ペリーが四隻の軍艦をもって浦賀に来航し、砲艦外交(威嚇外交)をしてまで、日本に対して開国をせまるんですね。(同じ時期にロシアプチャーチン長崎に来日し、開国をせまりますが、引返します。)

ペリーは翌年に再来日し、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれ、1856年にはタウンゼント・ハリスが初代駐日総領事(のちに駐日公使)として来日し、1858年の6月に日米修好通商条約を締結しました。

 

そして当然、他の国も黙って見ている訳がありませんから、1854年にイギリスのスターリング東インド艦隊司令長官によって日英和親条約が、1858年の7月にエルギン卿によって日英修好通商条約が締結されました。

 

ロシアも1854年にプチャーチン提督が再来日し、安政の大地震の津波で旗艦ディアナ号が沈没しましたが、翌1855年に日露和親条約を、1858年の7月に日露修好通商条約を締結しました。そして同じ7月に日蘭修好通商条約が、9月に日仏修好通商条約が結ばれました。

また、少し遅れて1861年にプロイセンオイレンブルク伯が来日し、日普修好通商条約を結びます。

そして各国の駐日公使の来日とともに、「プラントハンター」も続々と来日し始めます。

 

『プラントハンター 東洋を駆ける』の著者、アリス・M・コーツ女史はこう言っています。「美しい花々が咲き乱れる中国と日本は、世界随一の植物の宝庫で、神の慈愛によって最後までまもられていた……」

 

 

『プラントハンター 東洋を駆ける』 アリス・M・コーツ著/遠山茂樹訳 八坂書房

 

まず、ペリー提督の艦隊に随行して、「ジェームズ・モロー」、「サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ」、「ダニエル・S・グリーン?」、「チャールズ・F・ファーズ?」が小笠原諸島琉球諸島下田浦賀と採集活動を行いました。

 

 

箱館での引き網による魚の採集

 

また、ペリー艦隊に随行した従軍画家ハイネは、日本の風景をこう記述しています。

 

「われわれの見た山々の形は、絵のような美しさで、末端は切り立った岸壁となって海に落ち込んでいた。山地の一部、ことに傾斜のゆるやかな部分には木が生い茂り、台地もほとんど森や林で、さらに緑の畑地や草原が連なっている。十時ごろ、六千から七千フィートの高さと思われる連山の上に、大きな火山の富士山の頂が見えてきた。それは三十から四十マイル先にあるようであった。しかし後になって、この山は百マイル以上も離れていることが分かった。どの火山もそうであるように、富士山はなだらかな円錐形で、両側は四十ないし五十度の角度でそそり立っている。白っぽい点や帯がいくつか見えたが、全体にもやがかかっているので、それらが雪なのか真白なのかは見分けがつかなかった。

 二時、江戸湾の入口の外側まで来た。近くの陸地はほどよい高さの丘陵で、その背後には一段と高い山々がそびえたってる。これらの丘陵の連なりは、絵のように美しい断崖に終わっている所もあり、しかもそこは植物が繁茂し、あるいは美しい松林がおおっていた。また別の箇所では、狭い平地や緑の谷間があり、そこにはしばしば町や村落が見られた。耕作のできる所は、どこも美しい緑の水田だった。そしてその間に、円形の岩山や小さな林が散在し、好ましい風景を呈していた。この景観の魅力を一段と高めているのは、その上全体にただよう灰色の霞だった。それは静けさを印象づけるとともに、前景の濃紺の海と美しく調和していた。」

 

彼らの記述からは、当時の日本の風景がいかに美しかったかが判ります。

 

ハイネ『世界周航日本への旅』雄松堂出版(新異国叢書第Ⅱ輯2)

 

 

浦賀の風景、江戸湾 ハイネ

 

そして、ロシアプチャーチン提督の艦隊にも「ハインリッヒ・ウェイリッヒ」という医師が随行して、五島列島長崎などで採集活動をしたようです。またディアナ号の将校の「ペーター・ヨルキン」と「ミトリー・クズネツォフ」も下田で植物採集を行い、箱館に開設したロシア領事館の医官「ミヒャエル・アルブレヒト」も、箱館で植物を採集しました。

 

プラント・ハンター」の先進国のイギリスでは、まず、長崎領事事務取扱(のちに箱館領事)となった「クリストファー・ペンバートン・ホジソン」が来日します。1年半ほど滞日しましたが、長崎でツバキ、ツツジ、ユキノシタなどを採集しました。が、江戸へ赴任しましたが、ホジソンは公務に忙殺され、江戸ではあまり精力的には活動できませんでした。箱館へ赴任してからは植物採集の時間を割くことができ、王立キュー植物園の園長のウィリアム・フッカーの元に、日本の植物事情と標本1500種を提供しています。彼の滞在した蝦夷(北海道)は、イギリスの気候に似通っていたため、ホジソンの送った標本はキュー植物園でも好評だったそうです。ちなみにホジソンは駒ヶ岳の登山を行ったようです。かれは帰国後に滞在記(『ホジソン長崎函館滞在記』雄松堂出版 新異国叢書第Ⅱ輯4)を刊行しています。

 

『ホジソン長崎函館滞在記』雄松堂出版 新異国叢書第Ⅱ輯4

 

そしてホジソンと同時期に、中国においては『アロー号事件』で活躍し、日本では幕末のイギリス外交を主導し、長州藩の『下関砲撃事件』でも欧米諸国の代表者として辣腕をふるい、また日本の産物を欧米に紹介した(『第二回ロンドン万国博覧会』への日本の参加)功労者で、大著『大君の都』(岩波文庫全3巻)の著者でもある、「ラザフォード・オールコック」が駐日総領事(のちの初代駐日公使)が来日します。

 

彼も、王立キュー植物園の園長のウィリアム・フッカーと親しく、万延元年(1860年)の九月には外国人初の富士山登頂を行っています。オールコックフッカーの依頼を受けて、そしてちょうどその頃日本の開国を聞きつけて急遽来日した、ロンドンの大園芸会社の『ヴィーチ商会』の「ジョン・グールド・ヴィーチ」(創業者の曾孫)を植物調査のために富士山登頂に同行させました。

しかし、この年の三月には有名な『桜田門外の変』が起こっており、またこの後の十二月に『ヒュースケン斬殺事件』も起こっており、日本内陸への旅行は勇気のいることでした。

 

(J・G・ヴィーチの来日の目的はできるだけ多種類の珍しい、美しい観賞用の植物の採集と漆器の材料のウルシ、和紙の原料になる植物、それから果樹、そして特に耐寒性のあるシダイギリスの気候に耐える)でした。

この頃のイギリスではシダの栽培・観賞が大流行していたようです。)

 

 

 

アクアリウムとテラリウムの広告 

 

  

 

テラリウム

 

彼は屋外でも育つ、庭園に植えこめるようなシダを探していました。彼は日本に到着してすぐに一四種の日本の野菜の種子、二六種の薬草の種子、二九種の香草、灌木樹木、そして「六箱のシダ」をイギリスに送っています。

 

   

  

 

『大君の都』(上・中・下)ラザフォード・オールコック著/山口光朔訳 岩波文庫

オールコックの江戸』初代英国公使が見た幕末日本 佐野真由子著 中公新書

 

  

 

ラザフォード・オールコック    J・G・ヴィーチ

 

 

 小田原への川越 

 

       

箱根湖(芦ノ湖)

 

彼らの一行は、江戸から戸塚藤沢小田原箱根三島吉原をへて富士山へ向かったようです。

途中の箱根ではこんな感想を述べています。

 

「小田原から三島(十一次の宿駅)へゆく道は、箱根の峠を通っている。この峠は、山脈の頂上近くにあって、距離が約七リーグ(約二一マイル)もあり、想像できるかぎりもっともけわしい山道だ。道の大半は舗装の石の代わりに岩の破片だらけの水路であるにすぎず、その上を馬にのってゆくことは、この国のわら靴を利用したところでとても不可能だ。われわれの蹄鉄つきの馬にわら靴が欠くべからざるべきであることがわかった。それにしても、別当(馬丁)にとっては、たとえ乗り手という邪魔者がいなくても、丸石をこえて安全に馬をつれてゆくことは容易な仕事ではなかった。また数名の者は落馬した。これは、膝にとっては明らかに危険なことであった。それに道はほとんどたてつづけに上り坂で、徐々にしか前進することができず、仲々骨の折れる仕事である。だが、景色はからだの疲労をつぐなってあまりあるものであった。スイスを旅行した者には、オーベルラント〔スイスの中央部の山岳地帯で、大半はベルン県に属している〕のある部分、とくにローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱいはえている高い山々やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原へ流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。一〇〇〇フィートの絶壁をなす不安定な岩を流れる滝もほとんどない。空高くそびえ立つはだかの岩壁をもつシーデックやウェッテルホルン〔いずれもスイスのベルン・アルプス中のやま〕が欠けている。箱根の山脈全体のなかには、高くそびえる高峰やはてしなくひろがる雪と氷河をもつユングフラウ〔南スイスのベルン・アルプスの中の山〕に匹敵しうるものはない。ベルン連峰の巨人〔ユングフラウのこと〕は、日本において見ることのすべての山々を一挙にみすぼらしく思わせるほど偉大だということを告白しておかなければならない。とはいえ、たとえその景色が崇高さの点でアルプスにとてもおよばぬとしても、その代わりに植物の多さと豊富さでははるかにアルプスをしのいでいる。ここでは、山腹は高いところまでアカマツの森林になっていて、そのなかにタケやスギの優雅な群葉がまざっている。わたしが森林の木として誇らしげにしげっているスギを見たのは、そのときが初めてである。峠の頂上から箱根湖〔芦ノ湖〕へ下ってゆくときに、これらの木でできたりっぱな並木道に出くわした。いくつかの木は地上三フィートのところで周囲の寸法をはかると一四ないし一六フィートもあり、一五〇フィートの高さに直立している。薄紫色や青色や白色の大きな房をもった野生のアジサイが、スコッチ・アザミと並んで土手を覆っていた。谷間から最高峰にいたる間のあらゆる丘や山々は、樹木や灌木のこんもりしげった群葉のひとつの密集したかたまりのごとき観を呈していた。カシやカエデやブナやハンノキやクリなども皆ここにあり、ゆたかな秋の色合いに包まれていた。……」

と,スイスアルプスには景色の雄大さはとても及ばないが、植生の豊かさに感激しています。

そして三島沼津を経由して、吉原(現在の静岡県富士市吉原)に着きますが、暴風に見舞われて、やむなく吉原で宿泊し、翌日は晴れ上がったので富士山登頂をしますが、広大な富士の麓のジャングルのように自然に生い茂った森林(前日の暴風雨でなぎ倒された樹木でいっぱいの)の中で迷ったりしながらも、結局、富士山で二泊して何とか登頂することに成功したそうです。

同行したJ・G・ヴィーチは富士山の植生分布図も作成しています。

 

 

富士山 植生分布図

 

 

須走から見た富士山     

 

 

吉原から見た富士山

 

       

富士山登頂

 

帰りは大宮(現在の富士宮)から、沼津三島~(伊豆半島を横断し)、~韮山の江川屋敷(代官所)を横目に、熱海へ到着しました。

そして合計三週間をこのあたりで、紙の原料(カジノキミツマタタモ?タラジュ?)の調査などをしながら、休養を取って過ごし、神奈川へ戻りました。

この熱海では、英国から連れて来た愛犬の、スコッチ・テリア(スコティッシュ・テリア?)が熱海の間欠泉でやけどを負い死んでしまったそうで、大変悲しんでいます。

 

 

ラザフォード・オールコックと愛犬の碑

 

そしていよいよ、J・G・ヴィーチに遅れること三カ月にして、中国の植物(特に)の採集で有名な腕利きの「プラントハンター」ロバート・フォーチュン日本に上陸します。(つづく)

 

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江戸の園芸文化

2010/09/28 10:30

 

徳川家康は戦国武将で、戦上手で知られていましたが、実は薬とかに詳しくて、自分で薬を調合して自分の身体を治していたようです。(医者を信用していなかったそうです。結局、最後は鯛のてんぷらに中ったのか、自分でも治せずに、胃ガンかで死んだんですが!?)

そんなこんなで、関係あるのかどうか判りませんが、初代将軍家康、二代将軍秀忠、三代将軍家光の徳川三代が、そろって花好きだったそうです。意外なことです。(まあ、植物は本草学との関連もありますが。)

 

徳川家康    

 

江戸城には、本丸の近くに『御花畑』があり、『江戸図屏風』(国立民族博物館蔵)には「椿」や「撫子」、「」、「紫陽花」、「透かし百合」などが描かれています。(*椿は花がポロっと落ちるので、武士には縁起が悪いと敬遠されたようですが?)

徳川家康は、「椿」が好きだったようです。また琉球を征服した、薩摩島津家久から「ハイビスカス」や「ジャスミン」を贈られたそうです。(『武家深秘録』1615年より)

 

  

 

『江戸図屏風』(国立民族博物館蔵)

 

 

 

 

二代将軍秀忠は恐妻家でも知られ、武将としても『関が原の戦い』に遅参したりと、あまりパっとしませんが、無類の花好き(「椿」、「桜草」など)だったそうで、『花癖(かへき)』とまで言われているようです。(『武家深秘録』1615年より。今度のNHK大河ドラマ『お江』で取り上げられるかどうか?

秀忠の娘、東福門院和子の夫の『後水尾天皇』も「椿」好きで、安楽庵策伝『百椿集』の編纂に関ったようです。

 

後水尾天皇             徳川秀忠

 

また三代将軍家光もまた「椿」が好きだったそうです。家光の時代に「椿」が大流行したらしく、家光の時代に、松平忠晴によって『百椿図』が刊行されています。松平頼寛も十八世紀初頭に『菊経』(五巻三十六条)という「」の栽培書を刊行しています。

また1709年には、中国の明時代の李時珍が著した本草学の大著『本草綱目』にあやかって、貝原益軒『大和本草』を編纂しました。

こうして、江戸初期の将軍がそろいもそろって「花好き」だったせいか、江戸時代に園芸文化が花を咲かせます。

家光は「」や「」も好きだったと見えて「家光公遺愛の五葉松」や「家光遺愛の白藤」などが残っています。

   

「家光公遺愛の五葉松」   「家光遺愛の白藤」

 

 徳川家の将軍や大名は「花癖」の人が多かったらしく、八代将軍吉宗も5代将軍綱吉が現在の中野に『生類憐みの令』の際に作った「犬屋敷」の跡地に「」を植え、飛鳥山にも「」、「」、「」を植え、庶民の憩いの場に開放したようです。またたびたび染井伊藤伊兵衛の屋敷を訪れ「躑躅」や「」を購入したりしたようです。

 

1695年には江戸の郊外の染井の植木職人「伊藤伊兵衛三之丞」によって、「桜草」の著書『花壇地錦抄』が著され、旗本や御家人たちによって「桜草」の愛好会『連』が創られ、花の良し悪しを競う「闘花会」が開かれこのころには桜草の種類も300種くらいになったそうです。伊藤伊兵衛三之丞は「躑躅」の図解書の『錦刺繍枕』も出しています。また息子の政武も「」の指南書の『草花絵前集』や総合園芸書の『増補地錦抄』、『広益地錦抄』、『地錦抄付録』も刊行しました。

 

 

桜草

 

こうして伊藤父子の功績もあり、またこの近くに伊勢津藩藤堂家の下屋敷、大和郡山藩柳沢家下屋敷(現在の六義園)、若狭小浜藩下屋敷、尾張徳川家上屋敷などの御用を勤めることで、江戸の郊外の染井村を中心として、植木専門の一大園芸村が出来上がって行きます。

 

   

北尾政美画『染井之植木屋』(都立中央図書館蔵)徳川家斉 

十一代将軍家斉も趣味人であったため、「福寿草」、「」、「石菖」、「富貴蘭」、「万年青(おもと)」などが流行し、『珍花福寿草』などの図録や『草木奇品家雅見』『草木錦葉集』などの園芸書も刊行されたようです。

 

『草木錦葉集』水野忠暁著

 

『金生樹譜・万年青部』長生舎主人著

 

またこのころ『寛政の改革』を行なった後の松平定信が、失脚してから将軍家斉から現在の築地に土地2万坪を下賜されて、隠居して「楽翁」を名乗り、この土地に『浴恩園』を造り、『花月草紙』などを著し、また文人画家谷文晁の協力で「」の『花の鑑』、「」の『梅津之波』、「花蓮」の『浴恩園蓮譜』、「花菖蒲」、「」、「牡丹」、「椿」の『衆芳園草木譜』などの図譜も著したそうです。また『集古十種』という好古趣味の本も刊行しています。(庶民には奢侈禁止令を出しておきながら、自分は贅沢をするなど勝手なもんです。)

 

 

『浴恩園鳥瞰図』

 

この時期に、これに刺激された本草学者「岩崎潅園」が大著『本草図譜』(96巻92冊)を刊行します。

 

   

『本草図譜』

 

江戸時代の園芸は初期~中期の元禄期は、金持ちの趣味・道楽で行なわれていましたが、中期~後期に入ると一般庶民も経済的な余裕もできたのか、園芸バブルが起きました。

まず正徳から享保にかけて、京都円山を中心に「」を競う『菊合わせ』がブームとなります。「」の新作が一芽、一両から三両三分(現在の価値で5万から15万円)の値が付いたそうです。その後江戸にも飛び火して、享保から寛政期まで続いたようです。

」バブルの後は、「金生樹」と呼ばれた「」、「万年青(おもと)」、「松葉蘭」、「石斛(長生蘭)」、「蘇鉄」、「糸南天」、「福寿草」などの観葉植物でした。これらは「斑入り(ふいり)」や「矮生」(盆栽)などの奇品が尊ばれ、寛政期には鉢植えの高値売りが禁止されるほどでした。

園芸ブームにより、『金生樹譜』『橘品』『橘品類考』『たちばな種芸の法素封論』『松葉蘭譜』『長生草』『万年青譜』、などが相次いで刊行されたそうです。

「万年青」などはある男が手に入れた上半分が白い「万年青」が最終的には三百両の大金に化けた話が、寺門静軒『江戸繁盛記』に出ているそうです。

  

万年青(おもと)

  

福寿草     

  

松葉蘭             松葉蘭・長生蘭

 

「奇品」や「斑入り」の植物は、青山の種樹家金太(増田金太・繁亭)、染井の花屋(うえきや)源二『草木奇品家雅見』や幕臣(旗本)の水野忠暁の著した『草木錦葉集』によって一大ブームとなったようです。

 

  

斑入り植物

こうした園芸植物ブームも、植木屋と出入りの「棒手振り」の商人たちが担い手となっていました。

また植物を売る「植木市」も各地で行なわれ、現在でも『下谷の御徒町の朝顔市』『入谷鬼子母神の朝顔市』として名残を留めています。

そして江戸末期の嘉永・安政期に『変化朝顔ブーム』がやってきます。

朝顔自体は元禄期から寛政・享和から広まり始め、尾張藩士、三村森軒『朝顔明鑑鈔』壺天堂主人『花壇朝顔通』などの本も刊行されたほどです。やがて文化・文政期に第1次ブームが来ました。これは珍しいものや変わった葉のもののブームでした。

そして嘉永・安政期になると、またもや一大朝顔ブームが起こりました。これは奇妙な形の朝顔のいわゆる突然変異の『変化朝顔』のブームでした。

このころには幸良弼撰の『三都一朝』(この本の絵は幕末の志士、田崎草雲ですね)峰岸正吉『朝鮮珍花舜集(ちょうせんちんかあさがおしゅう)』『牽牛品類図考』なども刊行されました。

このブームはいったん途絶えますが、明治20年~35年にも、また昭和初年~15年ころにも起こったようです。現在も平成の第4次ブームが続いているようです。

   

朝顔売り 花かつみの三五郎 五渡亭国貞 画(三代豊国)

 変化朝顔

   

 

 舜花合(さがおはなあわせ)

 

 

こうした園芸ブームには、日本人の花見など花や樹木(紅葉)などを愛でる精神や四季を楽しむ感受性の高い感性などが支えていたのでした。

   

『江戸自慢三十六興』海案寺の紅葉 二代広重、三代豊国 画

『向島百花園』江戸名勝図会 安藤広重 画

 

 

 

 

  

 

   

◆サライ 1999年5月 6日号  花咲く都 江戸の植物

◆サライ 2000年12月7日号 『花癖』将軍・大名の庭仕事

    

◆月刊『歴史と旅』2001年3月号 秋田書店

 ◆江戸の花競べ-園芸文化の到来 (大江戸カルチャーブックス)

小笠原 左衛門尉亮軒 ()

 

江戸には、大森亀戸梅屋敷中野桃園御殿山隅田川上野飛鳥山向島百花園堀切菖蒲園などの、季節ごとの花見のできる行楽地も繁盛したようです。

『花壇朝顔通』壺天堂主人 著 春渓森有煌 画

 

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プラントハンターと日本(1)

2010/09/26 18:51

 

日本に初めて訪れた『プラントハンター』は、やはり長崎出島にあるオランダ東インド会社の商館に医師兼植物学者として勤務するために1690年に日本を訪れた、ドイツ人の「エンゲルベルト・ケンペル」〈1651~1716年〉です。

ケンペルは1692年まで滞在しましたが、ほとんど出島から出ることが許されず、植物の採集には苦労したようです。ケンペルに植物採集のチャンスがやってきたのは、江戸への参府旅行(1691年と92年の2回)の際だけでした。

しかし、江戸への旅行の際も自由な行動は許されず、日本人の同行者に頼み、途中で見つけた草花や小枝を「非常に大きなジャワ製の箱」に詰め込み、その中に羅針儀(コンパス)を隠し入れて測量もしながら、「それを写生し、説明書きをくわえた」そうです。

 

 

出島

 

彼は帰国後、『廻国奇観』という書物をまとめ1712年に出版されています。この本の第5章には、日本ケンペルが苦労して集めた、28種の植物図と約400種の植物の記述があるそうです。(残念ながら日本では出版されていません。)

この本に記述されている草花は、アオキミヤマシキミアジサイロウバイイチョウカノコユリオニユリ、2株のモクレン、種々のサクラツツジボタンチャヤマアサ、約30種のツバキなどです。

その他、ケンペルの死後『日本誌』が出版されました。この中の江戸への参府旅行記が、平凡社の東洋文庫から出されている『江戸参府旅行日記』です。(この本には、植物の記述はほとんどありません。ただの旅行記で、日本の風俗・出来事などの描写ばかりです。)ヨーロッパ人には珍しい地震や大火、火山などの記述が見られます。

 

 

カノコユリ 

 

(ユリは西洋では純潔の象徴で、大変に愛好されていました。特にこの『カノコユリ』は、「ルビーやガーネットが付いており、水晶のように輝いている」と絶賛され、雑誌『ボタニカル・レジスター』では「もし美しさにおいて最高のものがあるとすれば、それは間違いなくこの花である」とまで書かれました。)

 

 

『廻国奇観』 1712年刊

 

  

『江戸参府旅行日記』 平凡社 東洋文庫

 

『ケンペルの見た日本』 ヨーゼフ・クライナー 編 NHKブックス

 

 ケンペルの来日から85年後の1775年には、スウェーデン人の「カール・ペーター・ツンベリー(ツュンベリー)」〈1743~1828年〉が来日しました。彼はスウェーデンの植物学者リンネの弟子で同じく植物学を学んでおりました。

ツンベリーは前述した、ジョセフ・バンクスの派遣した「フランシス・マッソン」と、南アフリカケープ植民地で行動を共にして4年間もアフリカで植物採集活動をして過ごし、日本へ辿りつきました。

彼は1年間しか滞日せず、したがって江戸への参府も1回のみでした。しかし、ケンペルと違い箱根で徒歩になるチャンスがあり、「きわめて珍しい」植物を入手できたようです。江戸へ行く途中でも日本人の医師(岡田養仙中川淳庵桂川甫周など)や天文学者(渋川正清佐々木文次郎)と交流もでき、帰路は大坂の植木屋へも行くことができたそうです。

また、長崎の近郊へ何度も出かけることもでき、日本の植木屋へも何度も足を運び、また出島で飼っている家畜用の飼料からも植物を手に入れ、日本の植物を大量に入手することができたようです。また後日、日本人の友人からスウェーデンツンベリーの元に種子や植物が届けられたそうです。

なお、帰国後の1784年に出版された『日本植物誌』には、800種の植物が記述され、ケンペルより詳しく記述されていたにも関わらず、それほど大きな反響はなかったようです。

 

 

カール・ペーター・ツンベリー(ツュンベリー)

 

ツンベリー『日本植物誌』 アオキ

 

 

『日本植物誌』 1784年刊

 

 

『江戸参府随行記』 平凡社 東洋文庫

 

そして1823年になると、ドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(ジーボルト)〈1796~1866年〉が、オランダ商館付の医師として赴任してきます。

このころのオランダナポレオン戦争の真っただ中で、オランダは一時期、ナポレオンの支配下(弟のルイ『ホラント王国』のルイ国王)になり、数年間はオランダの国旗が掲揚されていたのは長崎出島だけという事態になっていました。

しかし、シーボルトの時代の日本の社会環境も変わり、シーボルトが医術に長けていたため(とくに眼科治療)、病人の治療を理由に長崎市中から近郊に掛けて見聞することができ、また長崎郊外の鳴滝にオランダ医学(実はドイツ医学)の『鳴滝塾』を開き、高良斎高野長英伊東玄朴二宮敬作などの門人を輩出することができました。

また個人的にも、遊女其扇(楠本滝)を引かせ、妻としイネを生ませることになります。

彼らを通して日本の政治、経済などの知識も増え、また幕府の天文方の高橋景保を通じて国禁の『日本地図』を入手したりしたが、1828年の帰国の際に荷物を乗せた船が座礁し、医師の土生玄碩白内障等の手術に瞳孔をひらく瞳孔散大薬を分与した時に貰った「葵の紋付」『日本地図』が幕吏に見つかり追放処分(『シーボルト事件』)を受けました。土生玄碩、高橋景保は入牢し、高橋景保は獄死した。)

それでも、シーボルトは何とか485種の植物標本をもちだすことに成功します。

しかし、バタヴィア経由で帰国後の1830年に、ベルギーの独立戦争が勃発し、シーボルトの植物標本は、預けた後援者が地元民と争いとなり、植物標本は押収され散逸したようです。(シーボルトの手元には約80種しか戻ってこなかったようです。)

その後、シーボルトは、オランダライデン『馴化植物園』を創設し、オランダのウィレム2世から栄誉を授かり「准男爵(ヨンクヘール)」の称号をもらい貴族に列せられ、『オランダ王立園芸振興協会』の創設者となりました。しかし、協会を私物化しようとしたため揉めたようです。

それでも、J・G・ツッカリーニとの共著『日本植物誌』(1835~70年)を出版したり、ほかの日本関係の書籍も刊行したようです。

彼の紹介した主な日本の植物は、タケツツジユリツバキアジサイなどで、ヨーロッパの園芸界に多大な貢献となったようです。

その後、欧米諸国日本が修好条約を結ぶと、シーボルトの罪も許され、1859には息子のアレクサンダーと一緒に、オランダ貿易会社顧問として再来日して、楠本滝と娘のイネと再会しています。

そして、次男のハインリッヒ・フォン・シーボルトは、オーストリア=ハンガリー帝国の外交官として駐日し、日本人と結婚して、イザベラ・バードの蝦夷旅行にも同行しています。

また、シーボルトは、1862年の帰国後も、死ぬ直前まで日本にもう一度行くのを望んでいたそうです。

 

   

シーボルト・お滝・イネ 

 

シーボルトとオタクサ(アジサイ)

 

 

イチョウ

 

ライデンのシーボルトの居宅「ニッポン」『日本植物誌』

 

『江戸参府紀行』 平凡社 東洋文庫

『日本植物誌』ちくま学芸文庫

 

  

『プラントハンター』 白幡洋三郎 著 講談社学術文庫

『プラントハンター 東洋を駆ける』 アリス・M・コーツ 著

 

  

  『サライ 1999年5月6日号』

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