ロバート・フォーチュンは、横浜、神奈川周辺での植物採集を終えると、R・オールコック公使の招きで江戸へ向かいました。
当時の江戸は、『桜田門外の変』の直後で、攘夷浪士達がうろうろしていて(長州藩の攘夷派も)、かなり危険だったと思われますが、R・フォーチュンは中国本土で海賊に襲われたり、アヘン中毒者に身辺を脅かされた経験もあり、武装しており、江戸への旅行に関してそれほど心配はしていません。
それどころか、江戸へ行く途中の『大森梅屋敷』では、接待に出た若い娘達を見てデレデレしています。
大森の梅屋敷
(前略)
騎馬で約二マイル行ってから、大森という所に着いた。そこには梅屋敷という立派な茶屋がある。梅屋敷は「梅の木の屋敷」という意味に解釈される。
そこへ亭主とかわいらしい娘達が迎えに出て、例のごとく食事をするよう勧誘された。梅屋敷は茶屋の中でも最上級のもので、当世風に設計されている。引戸で互いに各室が仕切られ、掃除のゆきとどいた畳敷きの床上に、土地の者がすわって、食事をしたり、茶や酒を飲んでいた。
(中略)
前述のように、われわれはその時、本当に食事を必要としたかどうか、それとも妓達の笑顔を見ないではいられなかったかどうか、いずれにせよ、一般読者にとっては、さほど重要なことではない。が、ともかく、梅屋敷で綺麗な愛らしい妓達に取り囲まれて、芳ばしい茶をすすっていたことは確かなことである。
(中略)
とにかく私に侍った小娘達は、輝くばかりの白い歯を持ち、唇を深紅に染めていた。
接客婦
日本の宿屋の亭主は、いつも雇い女に眉目好き娘達を手中に収めている。
(中略)
日本女性はシナの女性と比べて、作法や習慣がひどく違っている。後者は外国人の顔を見ると、すぐに逃げ出すのが常識になっている。日本女性はこれに反して、われわれに対して、いささかも疑惑や恐れを見せない。彼女らは茶屋に笑顔でやって来て、客の周りに群がり、客の服に触ったり、平気で握手する。彼女達の作法はシナ人よりはずっと自由であるとはいえ、私は、彼女達の行儀が、海の向うの内気な姉妹より劣っているとは思わない。
きれいな女中達がお茶のほかに、いろいろな菓子やゆで卵を数個盆にのせて運んで来た。そして卵の殻をむいて私に勧めた。私は愛想のよい女たちに取り囲まれていたので、このすばらしい場面を誰かが見たら、きっと大いに面白がるだろう。

大森梅屋敷 (サライ1999年5月6日号より)

こんな感じでしょうか (長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)
*R・フォーチュンは結構真面目な人だったようです。
そしてR・フォーチュンは、当時高輪の東禅寺にあった英国公使館を拠点として、江戸周辺を回遊してまわります。
高輪・東禅寺(英国公使館) (長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)
まずは来日外国人が江戸に来て先ず訪ねる『愛宕山』へ行き、江戸の全景を眺めて驚いています。
江戸市外の眺望
山麓に馬を預けて、ふもとから山頂まで積み重ねた長い石段を登り切ると、神殿の前や周囲に休憩所があった。そこへ待ち構えた花のような娘達が、いろいろな茶碗に注いだ熱い茶を勧めた。しかし、その時は大パノラマのように、眼下に果てしなく広がる、美しい町に見惚れていたので、神社や休憩所やきれいな給仕女さえも眼中になかった。
私はそれまで日本の首都、江戸の区域を十分想像しても見なかった。シナを去る前に、私はそこが二百万の人口をもつ大都市であるという話を聞いていた。けれども実を言うと、それらの噂を非常に疑っていた。江戸の話は、区域や人口のどちらも、大分誇張されているかも知れないと考えていた。しかし、現実に私の眼でこの町を見渡して、以前に聞かされていたことをすっかり確めた。
われわれが今来た、樹木の茂る品川の郊外一帯の西南の方を振返って、次第にゆっくりと目を南に向けると、東の方に三日月か半月形をした湾の海岸沿いに、幾マイルも延びている江戸の美しい町並が見えた。すがすがしい秋晴れの午後で、いともあでやかな町の女神が横たわって、日光浴でもしているように目に映った。湾の海面はガラスのようになめらかで、あちこちに漁船の白帆やほかの和船が散在していた。また湾内には幾つかの台場砲台が、この城下町を防衛する砦を構成していた。はるか遠方の対岸に、低い山並〔房総半島〕がかすんで見えた。東から北の方へ眼を向けると、家並や寺や庭で埋まった広大な低地〔下町〕が一面、はるか向うの水平線までつづいているように思われた。四、五カ所に木造の橋が架かっていた大川〔隅田川〕は、その辺の町を貫流して、江戸湾に注ぐ。
二マイルほどの地域に、家並の密集した下町の反対側に、厚い岩壁と深い堀に囲まれた、大君〔将軍〕の宮殿〔城〕と官庁街があった。城壁の外側には、何マイルもある広いまっすぐな街路と、厩のような長い建物がある。その界隈には領主〔大名〕とその多数の家来達の居宅がある。
広漠たる市街を越して西方に眼を移すと、その背後に一連の雑木山があり、その傾斜地は家や寺や樹木でおおわれていた。江戸でとりわけ賑やかな場所は、この丘陵の向うになるので、今はわれわれの視界からさえぎられて見えなかった。


愛宕山からの眺望 (CG日本史シリーズ⑤『江戸の風景』 学研より)
また江戸郊外を散歩して、江戸の自然と町人や農民の暮らしに感嘆しています。
花を愛する国民性
馬で郊外の小ぢんまりした住居や農家や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭をつくっている。日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優って見える。
印象的な並木道
私は他のどこの国を回遊しても、その時通り過ぎたような印象的な小道に出会ったことはない。その時ふと、イギリスの田舎のどこかで見たような気がした。しかし、私は、イギリスには日本の風景に比較できるものは、何もないことをすでに認めているにもかかわらず、その美しい小道が、母国の景色に似ている、と思ったほど、気に入っていた。
大きな並木道や、松、とくにスギ(Cryptomeria)の並木にしばしば出会ったが、道ばたに大変快い日蔭をつくっている。ときどき種々の種類の常緑のカシや、時にはスギやほかの常緑樹でつくられた見事な生垣に注目した。生垣は丁寧に刈り込まれて、手入れがゆきとどき、時にはかなりの高さに整枝されて、イギリスの貴族の庭園や公園でよく見かける、ヒイラギやイチイの高い生垣を思い出させる。どこにもある小屋や農家は、きちんと小ざっぱりした様子で、そのような風景は、東洋の他の国ではどこにも見当たらなかった。旅人の休む茶店の傍らを何度も通ったが、その裏にささやかな庭や養魚池があったのを、馬でゆっくり通りすがりに、チラと眼に入れた。景色はしじゅう変化するが、いつも美しい丘、谷間、広い道、日蔭のある小道、そして家々や庭などで見かける人びとは勤勉で、労苦にくじけず、あきらかに現状に甘んじて満足している。
R・フォーチュンは、そしてお目当ての江戸の植木屋巡りをします。これには同行した警護の幕府役人達が手こずらされたようで、攘夷浪士達からR・フォーチュン達一行を守るために、行きと帰りの道順を毎回変えたようです。
第七章 染井村の壮観――植物さがし
江戸の東北郊
日本の首都、江戸の郊外には、商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分のある人びとは、すべての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さず訪ねることにした。
(中略)
団子坂の菊人形
加賀屋敷を過ぎると、東の郊外に達した。そこから二、三マイルにわたって、道の両側の所々に家並のある、長い道がつづいている。この道を右に曲がって、日蔭のある小道を通り過ぎると、間もなくあこがれの団子坂の町に着いた。この美しい場所は、両側に樹木の多い丘の谷間にあった。
この庭で一番珍しいものは、菊の花でつくった人形であった。数千の花を使って作られた菊人形の美人が、微笑を浮べて、茶屋や休憩所から出て来る客をしばしば驚かしていた。評判の梅林が庭内のいたる所にあり、小さな池や築山の島が、全体の眺めを引立てていた。
(中略)
だが、前に私が聞いていた話から、彼らが私を欺していることを察したので、自分で大体の調査をして見ると言い張った。彼らは私がひとりで探す決心を見て、近くに別の場所を知っている風で、そこへ案内したいと申し出た。その話をありがたく受けて、そこへの案内を頼んだ。
丘の頂上の方へ少し歩いてから、恰好のよい生垣が並んでいる、長い田舎の一本道を通って行った。そこには日本の鑑賞植物を豊富に植え込んだ、大きな植木屋が何軒もあった。
団子坂 (サライ1999年5月6日号より)
どうも団子坂の植木屋はたちが悪く、値段をチョロまかしたようです。
持主は、最初私が選んだ植物を売るのか売らないのか、はっきりしなかった。彼らはいつも、この二つの点については、役人にまかせていたが、この時も、総計をいくらにするか、を訊ねていた。私はこいつらが、普通の価格や市価よりも、不当に高く払わせたという印象を打ち明けねばならない。
(中略)
あくる朝、私が植物を買った植木屋が、そろって英国公使館にやって来て、植物と引替えに代金を受け取った。たぶん役人にいくらかの割前を出したのだろう。正当な取引ではないから、その場で文句なしにこっそり行われたのだろう。
二、三日たってから肝心の大きな植木屋の集まった『染井村』へ行くこととなります。
R・フォーチュンはもはや感動の連続でした。
染井村の壮観
交互に樹々や庭、恰好よく刈り込んだ生垣がつづいている、公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が、一マイル以上もつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。どの植木屋も大同小異なので、その一つを記述すれば、全体のたくみな趣向がわかるだろう。
すばらしい観葉植物
染井や団子坂の苗木園のいちじるしい特色は、多彩な葉をもつ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる、自然の珍しい班入りの葉をもつ植物を賞讃し、興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、私の知る限りでは、日本では千年も前から、この趣味を育てて来たということだ。その結果、日本の観葉植物は、たいてい変わった形態にして栽培するので、その多くは非常にみごとである。これらの優秀な多数の植物について、ある程度の概念を与える品目を多少、次に紹介する。
マツ、ネズ〔社松〕、ヒノキ(Reitinosporas)、ナギ(Podocarpus)、シキミ(Il-liciums)、アセビ(Andromeda japonica)、サカキ(Euryas)、グミ(Eleagnus)、トベラ(Pittosporum Tobira)、マサキ(Euonymus)、タラノキ(Aralia)、クスノキ(Laurus)、イチョウ(Salisburia adiantifolia)などである。ところが、イギリスでは、前述のように、斑入りの種類は、わずかにアオキだけしかない。それがここには、さらに斑入りのラン!斑入りのシュロ!斑入りのツバキ!そしてチャの木でさえも、まさしくこの「楽しき一族」を表徴している。「アジアで最上の針葉樹の一つ」を確信する美しいマキも、葉に金色のたてじまの入った変種が栽培されていた。

染井村(現在の巣鴨・駒込周辺) (サライ1999年5月6日号より)
そして帰りに、当時の江戸の富裕な粋人の遊び場所『王子・飛鳥山』へ寄りました。
ここは八代将軍吉宗が桜の木を植えてから、江戸の庶民の憩いの場所で、四季折々に多数の行楽客でにぎわった場所でした。
ここにはたくさんの茶屋があったようです。
江戸のリッチモンド
王子は、言わば、日本のリッチモンド〔ロンドン西郊の住宅地〕で、そこにはイギリスの「スター・アンド・ガーター・ホテル」に匹敵する有名な茶屋がある。ここは江戸の善良な市民達が一日の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかにこれ以上の娯楽場を探すのはむずかしいだろう。やがて道は小丘の下へ出た。道の両側には、郊外の平凡な住宅や庭の生垣がつづいていた。村に近づくと多勢の人々が外国人を見に出て来た。近頃では外国人もとくに珍しいことではないのに……。幾人かの子供に馬をあずけて、われわれは茶屋の中へ案内され、愛想のよい娘に迎えられた。
茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人びとが愛好するに足る場所だと思った。
(中略)
将軍の狩猟場
私の主な目的は近くの丘に登って、このあたりの景色を眺めるためであった。間もなく頂上に来ると、そこは所々に巨木がまばらにある草原の台地で、将軍の狩場である。将軍はそこで時折り、日本産のアオサギを追う鷹の飛翔〔鷹狩〕を観覧するのである。鷹は日本では神聖視され、当局から厳重に保護されていた。その丘にはまら帝国の兵卒〔幕臣〕が行う弓場と、将軍の随員達が食事をする食堂があった。
この高台からの眺望は実にすばらしかった。北の方に高度に耕作された農地が広がっていた。ちょうど米の収穫時期で、稲田は熟した果実で黄色に染まっていた。小麦や大麦の芽生えが、すでに一インチぐらいずつ地上に出て、そのいきいきした緑と、稲田の黄色とがよい対照であった。その辺一帯は樹木がよく茂って、小川が谷間を曲がりくねって、江戸湾の岬の方へ流れているのが眺められた。この場所は全体的に見て、これに優る将軍の快適な狩場を見付けることはできないと思う。

王子・滝野川の風景 王子の茶屋(長崎大学付属図書館 幕末・明治期古写真データベースより)
また後日、浅草方面を回遊してまわります。
そして日本の菊に圧倒され、即断で菊の匐枝を売ってもらい公使館へ帰りました。
浅草寺と花園
われわれは大通りの突き当りで、巨大な寺院の前に到着した。大きな階段を登ると、幅広い扉が開かれていて、須弥壇の上に蝋燭がともり、僧侶達が読経の最中であった。わけの分らぬ音響、太鼓を打ったり鉦を鳴らすなど、私がしばしばシナの仏教寺院で聞いたのと同じようで、以前の経験談の繰り返しであった。
(中略)
ここは江戸の近くで、多種類の美しい菊で有名である。われわれが訪ねた時は花が満開であった。イギリスの花屋はきっと、ハンマースミス寺院や、ストーク・ニューウイントンから、はるばる浅草寺の菊の花を見に来て、どんなに目を楽しませたいことだろう。
私は形も色も特種で実にすばらしく、イギリスで現在知られた、どんな種類とも全く異なった品種をいくつか手に入れた。ひとつは、赤色の長い花弁が毛髪のように咲き乱れて、黄色の花蕊がショールやカーテンの房のように見える。ほかのは広くて白い花弁に赤い線が入って、カーネーションかツバキのようであった。別のは大形で光沢のある色彩が目立っていた。もしも私が引きつづき、これらの変種をヨーロッパに紹介することができたならば、私が以前手掛けた「慎み深い」〔花ことば〕ヒナギクが、ポンポン咲き菊(イギリスで成功した最高の品種改良)の原植物になったように、菊もいちじるしい変化を生じるかも知れない。

浅草寺
東洋のキク
R・フォーチュンは中国の舟山列島で採集したキクを、一八四六年にイギリスに持ちかえり、ロンドンの園芸協会で展示しました。
そして、二度目の中国旅行でも、珍しいキクを持ちかえっています。
しかし、この日本旅行の時のキクが最良であったらしく、団子坂、染井で購入したものを「ウォードの箱」で持ちかえり、そののち『スタンディッシュ・アンド・ノーブル商会』で改良、繁殖されて、イギリスのみならずヨーロッパ全土を席巻したようです。
日本のキクは遅咲きなので、そこをフランスのトゥールーズの園芸家、M・デローが改良し、早咲きのキクとなり一八七〇年代に一大ブームを起こしたそうです。
一八七六年三月一八日号の『ガードナーズ・クロニクル』はこう言っています、
「日本のキクはたいへん奇妙で、おかしなものだ。けれどもじつに美しく印象的である。それは秋に咲く数少ない花を自宅で育てる装置をもっている人に、すぐに好かれるようになった。」
しかし、こうも言っています。
「ふつう、十一月の半ばあるいはもっと遅くにならないとキクの花芽は十分に発育しない。だからキクは露地栽培に向かない。」
1900年のパリ万博で大賞に受賞した日本のキク (サライ1999年5月6日号より)

変わった形のキク『菊の香』 (サライ1999年5月6日号より)

ヨーロッパのキク (サライ1999年5月6日号より)
産業革命後のヨーロッパでも、温室をもつ園芸愛好家しかキクを育てることが出来なかったことが分かります。
ヨーロッパでも園芸は庶民のものではなかったんですね。
ところが、当時の日本では園芸は庶民~富裕層まで一般的なものでしたし、植木屋も染井村や団子坂などは、五十軒ぐらいの植木屋がかたまっていたそうですから、一般庶民まで浸透していたことが分かります。
江戸時代の日本の特色は欧米と違い庶民文化が発達していたことでした。
一般庶民が園芸を楽しめるのも、生活に余裕がある証拠です。
R・フォーチュンも中国での採集旅行と違い、団子坂や染井に行けばいくらでも植物を手に入れる事が出来たし、英国公使館には毎日のように植木屋が植物を売りに来たそうです。
日本での植物採集は、日本は植木屋がたくさんあって、園芸が盛んだったので、珍しい植物でも結構楽をして手に入れる事が出来たんですね!
R・フォーチュンは、この秋~冬にかけての採集旅行だけで物足らず、翌年の春~夏にかけて、もう一度来日します。
by s.jannepomucky
日系人部隊とTBS『99年の愛…